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2012.05.01

12|小野寺康のパブリックスペース設計ノート

小野寺 康((有)小野寺康都市設計事務所|EA協会)

第3部 ケーススタディ

 

ようやく最終章に届いた。本章「ケーススタディ」は、これまで述べてきた諸理論の実践編である。実際の設計事例に沿って、街路や水辺、広場といった具体的な対象ごとの設計アプローチを示すとともに、これまでの諸理論を総合的に見渡すことを目的としている。

デザインとは、諸条件を一つの形態に総合化する行為だ。

要求されるさまざまな事象を翻訳化して統合する操作であり、調査して情報を積み上げ、解析するところから始まる。ただし、コンセプトを造形へ練り上げる作業は積み上げだけでできるとは限らない。

まず敷地調査から入り、次に周辺の地勢調査や都市の歴史、文化、さらには風俗というか土地柄、風土性、人の気質などを読み込みながら、その土地、その地域の「成り立ち」を探っていく。そこからコンセプトを導き出し、次第に設計の組み立てを構想するというのが基本的な流れだとして、最終的な形がその通り演繹的に導き出されるということはまずない。

論理は必ず行き詰る。そして、そこからが勝負となる。

現場でひらめく天才型の設計者には用のない話だ。自分は間違ってもそうではないので現場に降り立った瞬間に全貌が見えるということは滅多にない。常に脳を振り絞り、手を動かしてアイディアを追い求めていく。そして大量の試行錯誤を経て、アイディアを膨大に捨て去りながら一つの形に煮詰めていく。

その上でまた行き詰る。

そして、とことん行き詰った先に、その瞬間がやってくる。ひらめき、インスピレーション、何と呼んでもいいが、その時は自分でも解るものだ。

それまでが苦しい。また、行き詰らないとインスピレーションはやってこないというのが、因果な商売だと思う。私だけかもしれないが。

この「ケーススタディ」では、むしろそんなプロセスを生々しく伝えてみようと思っている。その上で、これまでの理論を援用して解説するという方が、設計者として正直で、読者にとって誠実ではないか。

そんなことを考えるのも、この『設計ノート』は単なる設計マニュアルではなく、読者をデザインの現場に放り込むようなリアリティを大切にしているからだ。

いわゆる「解説本」的なものからはどんどん遠くなっていく気もするが、それもまたよし。最初は、街路である。

図らずも島根県の二つの街路プロジェクトを取り上げた。それぞれに意義があり、先のプロジェクトがその次のそれを強力に推進させた。個人的にも意義深いプロジェクトの連なりだ。

 

 

3-1 アクティビティのデザイン

-津和野 本町・祇園丁通り,出雲大社 神門通り-

 

街路。じつは、道路構造令にこの言葉はない。法的には地方の山道であろうが密集市街地の細街路であろうが、すべて一律に「道路」であり、「交通の用に供するもの」としてのみ存在する。それがある場所(市街地かそうでないか)や、交通量によって類型が決まり、設計速度が定められる。

だが、人が生きていく意味からすれば、街路と道路は異なるし、単なる交通施設としてのみ捉えているわけにいかない。確かに人が往来し物流が行きかう場だ。水道やガス、電気などの供給ルートで、雨水・汚水の排出経路でもある。その上で、都市生活を支えアクティビティをつなぎ渡し、都市に活力を与える最も直接的な社会基盤が街路であり道路だ。時にそれはコミュニティスペースとなり、飲食の場、子供の遊び場、祝祭の舞台にもなる。

山陰の小京都と呼ばれる津和野で、そんな街路を設計する機会を得た。

 

津和野 本町・祗園丁通りの経緯

平成16年の秋――それまで自分は津和野には行ったことがなかった。

筆者の大学の先輩である岡田一天氏が、東京大学(当時)の篠原修教授と協働で「津和野川」の水辺を設計してきたことは何度も聞き及んでいたし、その整備の写真も見たことがあったから、まるで知識ゼロということはなかった。とはいえ、「本町・祗園丁通り」についてその篠原教授より電話をもらった時も、それが町のどこにあるのかすら知らなかった。そのくらい唐突に、このプロジェクトは始まった。

「住民は石畳にしてくれというんだがな。県は殿町通りで車道の石畳に懲りてるんだ。大型の観光バスが通れる石畳ができるか?」

電話で篠原教授はそう尋ねてきた。

歴史的城下町・津和野において、県道・萩津和野線は、「背骨」に相当する市街地幹線だ。動線的な主軸であると同時に、歴史性・シンボル性においても最重要の路線といっていい。

この路線は市街地内では三つの区間に分かれている。旧武家屋敷地区が「殿町(とのまち)通り」、それに続く町人まち地区が今回の「本町・祇園丁(ほんちょう・ぎおんちょう)通り」で、その延長としてJR津和野駅までの区間が「駅通り」だ。

平成16年に整備案が予算化された時、「本町・祇園丁通り」の整備が他の区間より遅れていた。殿町通りは、白・錆御影石混合の切石舗装で、平成12年に整備完了していた。駅通りもまた、歩道は脱色アスファルトで、かつ歩車道段差のないバリアフリー形状で平成15年に整備済みであった。

 

左から殿町通り、本町・祇園丁通り(施工前)、駅通り

 

島根県による本町・祇園丁通りの初期提案(整備案モンタージュ)

歩道部(路肩部)を比較的小さな御影石とし、車道部は脱色アスファルト舗装とするもの。殿町通りの石畳と、駅前通りの脱色アスファルトを混ぜ合わせた、折衷案的な提案だった。この提案が住民会議で否決され続け、新たなコンセプトとデザインが外部に求められた

 

御影石舗装の殿町通りと脱色アスファルト舗装の駅通り。島根県による「本町・祇園丁通り」の最初の事業提案は、これらの形態的な差異を埋めるような形で提示された。それは、車道部を排水性カラーアスファルト舗装、路側部を小ピースの石張り舗装という、いわば両区間の折衷案というものであった。

これに対して住民は、殿町通りの延長なのだから全面石畳にしてほしいという。

観光客の流れは、殿町通りの石畳が切れたあたりで変わる。それは石畳が途切れているからだという主張であり、もともとは一続きの街路なのだから石畳にすべきだと。

ひと続きの路線でありながら、すでに述べたように「殿町通り」は文字通り武家地のエリアであり、これに対し「本町・祇園丁通り」は町人まちの主軸として都市の生活を支えてきた。現在も旅館、飲食店をはじめ、酒屋、米屋などの商業集積は「本町・祇園丁通り」が中心で周辺は住宅地となっている。あくまでも一連の通りというのが住民の感覚で、じつはこの後住民参加のワークショップで話を聞いたところでは、殿町通りとまったく同じ石畳にせよといっているわけではないのだが、とにかく県が提示してきたカラーアスファルト舗装案ではあまりにも“差異”があると思われ、受け入れられなかった。協議は難航していた。

一方の島根県の思いはこうだ。

いわゆるセメントと砂を加水した、モルタルをバインダーにする工法を「湿式工法」とよび、インターロッキング・ブロックや煉瓦のように、敷砂の上にブロックを並べた上に目地砂を掃き込んで仕上げる工法を、ドライな「乾式工法」という。

石畳、この場合御影石舗装は、基本的に湿式工法になる。

湿式工法は、養生に時間がかかる。だが、道路というものはそこを通らないと通勤通学はおろか日常生活が成り立たないという状況になりがちなので、十分な養生期間を確保できないまま開放せざるを得ない場合が多い。この養生不足が後々の目地割れや石材の破損へとつながっていく。

殿町通りの石畳がまさにそれであった。しょっちゅう目地割れし、舗石がぐらついて補修が必要となり、補修が終わった頃には別の個所が壊れるということの繰り返しで、応急処置のアスファルトが石材の間に点在する、まだらな風景が常態化していた。

 

補修でまだらになった殿町通り

 

そもそもフルサイズの大型観光バスが日に何台も乗り入れるこの通りに、通常の湿式工法では限界があるといえるだろう。だが、殿町通りの施工当時石畳といえばモルタルを使った湿式工法しかないといった状況だった。

とにかく、県は殿町通りで懲りていたため、車道の石畳はやりたくないし、そもそもそんな予算は確保していない。だがそれをいっても住民は納得しない。

当時の議事録を読むと、行政側と住民の意見が対立したまま硬直状態が続いていたようだ。

そんな中で、景観の専門家として長年にわたり津和野川に携わってきた学識者、篠原修・東京大学教授(当時)へ相談が回ってきたというのが、冒頭の電話のくだりにつながる。

「どうだ、できるか?」

「大型バスが日に何台も通る重車両対応の石畳ですか。それならインジェクト工法というのがありますが」

篠原教授に問われて答えたそれは、とろとろのバインダーを石材の下地と目地に流し込む車道専用の石畳工法だ。硬化が早いうえに、固まるとセメントのようにカチカチになるのではなく、荷重を受け止めるように撓むため、重車両交通にも耐える。この工法が現行の舗装技術の中では、景観と強度を両立させる最も信頼性が高いものだといえる。ただし、それなりにコストも掛かる。

「予算をすでに決めてしまったので、今からだとそこまでの金は出せないだろうな」

篠原修という人は、東大教授というれっきとした学者でありながら、もともと民間のコンサルタントに就職し、その後旧建設省の土木研究所にも勤めていた異色のキャリアを持っており、景観の権威でありながら行政マンや技術屋の気持ちが理解できるという特殊な人間である。

「なるほど、そうですか。」

そう聞いてもう一つ思いついた工法があった。実にその電話があったほんの数か月前に、いわゆるインターロッキング・ブロックといわれるコンクリート舗装材料の製造会社に最新工法を視察に行ったばかりだった。それは石材にも有効に思えた。

「できると思います。」

即座にそう答えることができたのは、そのことがあったからだ。

すぐに津和野へ向かった。

 

歴史を歩くみち

まちを知らないと設計はできない。

とにかく知ることだ。今回のように設計案を出すまでに時間を掛けさせてくれない現場もある。それでも可能な限り地図を調べ、歴史を調べたうえで、最低限市内の主だったところをひたすら歩きまわるところから始めなければならない。

本来はそこに時間を掛けたい。できればその町の「気分」が知りたいと思うほどだ。

津和野の景観を特徴づけるものは、山と川に挟まれた宿場町的に細長い集落構成と、伝統的な家並み、町なかを流れる数々の疎水、そして津和野川だ。

津和野川は、かつて無愛想なコンクリート護岸だったものが、「修景」整備後は、風合いのある自然石の石積み護岸が様々な形状で連なり、それが殿町通りの風情とよく響きあって歴史的城下町の情緒を醸し出していた。

 

津和野川と川沿いプロムナード 様々な表情を持った石積み護岸

 

殿町通りは、街路に沿って疎水が流れ、放たれた鯉が観光の目玉の一つとなっていた。

しかし、街路の設計としてみるとあまり合理的と思えなかった。

「パフォーマンスの悪い通りだな。」

そう思った。

重車両が通るとわかっている車道部分を大判石材の石畳とし、歩道部にやや質感が落ちる脱色アスファルトが使われている。歩車道にあまり段差はなく、低い縁石と排水側溝で区分けされているだけなので空間的には一体的に使える。

歩行者は車道の石畳を歩きたくなるが、それなりに交通量があるのでそうもいかない。見るだけの石畳。それが車両交通を受け止められず補修だらけになっていた。

さて、「本町・祇園丁通り」のことだ。

石畳がふっつりと切れている。疎水もない。明らかに人の流れがそこで止まっていた。

街路のつくりとしては殿町通りとつながっているのにも関わらず、風景として明らかに質が低い。

近世から戦前まではおそらくこの通りの方が賑わっていたのだと思った。近代化によって自動車社会になり、観光という業態がまちのつくりを変えたのだ。

津和野は、高質の景観資源が川沿いの比較的小さな領域性の中に高密度に集積している観光都市として全国的にも稀有な存在である。歴史文化が馥郁たる「雰囲気」をともないつつ生活風景を形成している。庁舎や商業施設、一般住居に至るまで、あらゆる施設において伝統建築の維持・保存が良好であり、その中で現代生活が営まれている状況は、いわば生きた歴史遺産といえるものだ。

しかし、一方で津和野の産業構造は、必ずしもその特性を生かしきれていない状況であった。一般の観光地と同様、大型バスによる団体客誘致に主眼を置いており、大規模宿泊施設に乏しい土地柄から、夜間の宿泊は萩など近隣の観光地に依存してしまう。その結果、これだけの地域資源を持ちながら、昼間のにぎわいとは打って変わって夜間に人通りが途絶える。夕暮れに観光客がそぞろ歩きを楽しんだり、灯下で酒食に興じたりする光景がほとんど見られない。

実際、旅館で食事を取った後、軽く一杯飲みに行こうと思っても、開いている店は1、2件ほどしかなかった。このことはなにも津和野に限らない。というより、ほとんどの地方都市はそういうものだ。ただ、津和野は情緒豊かな観光都市である。ちょっともったいないと思った。

 

 様々な景観資源 左から石州瓦、旧町役場、せせらぎ、津和野川

 

津和野の観光形態には、時間をかけてゆっくりと歩いてめぐる体験が最も適していると感じた。本来的に個人客中心の、多様できめ細かい要求に呼応できる、小規模多様な観光スタイルこそ相応しい。一般の観光地は、観光資源が散在している中を団体でスポット的に短時間巡り歩くスタイルがまだまだ多い。高度経済成長期には全国的にその観光スタイルが流行して社会現象にまでになった。近年、観光のスタイルは少人数の個人客による高質で多様なものへと推移しつつある。津和野にとって望ましい時代になってきたといえるだろう。だが、それが生かされていないし、その基盤に乏しい。

ならば――。

「本町・祇園丁通り」はその基盤づくりになればいい。

津和野は近年、津和野川というまとまった地域資源の景観整備が完了した。かつて「裏側」だった水辺は、活力を持って街の表舞台に変容し、その結果、殿町通りなどの主軸街路しか観光ルートを持たなかった地域は、面的な回遊性をもつゾーンとして生まれ変わりつつあった。

今回の「本町・祇園丁通り」の整備は、その骨格を生きたものに仕上げる重要な契機になることは明らかだった。

そのためにもどんな風景にすべきか、まちを歩きながら、つらつらと諸条件を勘案し、頭の中でああでもない、こうでもないと思案しつつ、島根県津和野土木事務所(当時の名称)に出向いた。つまり、この時点ではまだ街路デザインの全貌はまだできていない。

まず県の意向を確認した。すると予想通りの答えが返ってきた。石畳は破損が多く管理が大変なのでやりたくない、予算もカラーアスファルトのレベルでしか確保していないという。

「予算のことは私には何とも言えませんが、壊れない石畳ならやってもいいということですか?」

重車両対応の乾式工法の舗装構成はほぼできていた。

敷き砂、目地砂ともに弾性のあるパウダーを混入した特殊なものを使う。さらに、石材の交点に硬質樹脂(プラスティック)製のジョイント器具をはめ込みながら、モルタルを使わず、乾式工法で施工するという方法だ。車道対応の路盤補強もやはり弾性のあるアスファルト・コンクリート(いわゆる「アスコン」)を用いる。

車両の荷重を、剛性を持って受け止めるのではなく、自らたわんで荷重をいなす、柔構造の石畳だった。

この工法に、担当者は関心を示した。

次にデザイン。

殿町通りの延長上で考えると、意匠的にはやはり、中央の車道部を大判石材にして、路肩部をより小ピースの石材で敷くのがいい。だが、大判であるほど割れやすいので、さすがに殿町通りよりは石材寸法を落とす。その方が割れにくくなるとともに、武家町の殿町通りより町人まちの本町・祇園丁通りの方がランクダウンすることになるから、まちのコンテクスト(文脈)にも呼応する。

石材はグレー。白線を白御影とするなら、ベースの石材のトーンを落としてコントラストをつくらなければならない。一方で、暗めの素材の方が自動車のタイヤ痕がまぎれる。

問題はそこからなのだが、まずはこの工法で行けるかどうかがポイントだった。

津和野の担当者の心配はとにかく破損である。

その工法でバスが載っても割れないかどうか。

「割れません。この工法はインターロッキング・ブロックのための工法です。実際に大型トラックが載るのも見ましたが、路盤がたわんで衝撃を吸収していました。石材の方がコンクリートブロックより単体部材として強度がありますので、少なくとも私は心配していません。問題は石材でやった事例がないということでしょうか」

実はこちらが心配していたのは、実績よりコストだった。今確保している事業費ではさすがにできない。

「いずれにしても予算を変更してもらえないとできません。ただ、インジェクト工法よりはるかに安いですが。乾式工法なのですぐに道路を開放できますし、将来、沿道の建て替えなどで路面を掘り起こさざるを得ないことになっても、石材なら再利用が可能です」

それでも、事例がないというものを行政はやりたがらないものだし、それを決断できる行政マンは少ない。

だが、ネゴシエーションが定まらない以上、選択肢はあまりないという状況でもあった。

「予算は…何とかしてみます」

乾式工法の石畳が可能になった瞬間である。

デザインとしては、その次の段階が問題であった。

石畳にしても、歩行者がゆっくりと歩きたくなる雰囲気ができるかどうか。車両が遠慮するような雰囲気をデザインで創り出せれば――。

 

シェアド・スペース

本来なら、迂回動線を整備してでも通過車両を減少させたい。しかし、他路線に負荷をかけられる余地はない。都市計画的に通行量を抑制できる可能性は見当たらなかった。

では、空間演出として自動車通行を抑制し、より歩きたくなるような、風情のある街路景観をデザインで実現することはできないか。

全面的な石畳整備を基軸としながら、車道という位置づけは変えないまま、デザインによって車道通行を抑制し、歩行者主体の雰囲気に転用させる。

――そのアイディアはシンプルなものだった。

その形は、島根県の担当者と会話する中で突然思いついた。

「歩行者がゆっくりと歩きたくなる雰囲気にしたいと思ってるんです」と私。

「そんなことができるんですか?」

「うーん、例えばですね…」

そう言って自分を追い込むことで、形が勝手に飛び出ることがある。その時がそうだった。

路側線(白線)の位置はそのままにしながら、舗装パターンによって中央部の車道舗装の部分を、視覚的に(意匠として)縮小し、街路全体を歩行者主体の空間に演出するのだ。

後で知るのだが、歩車道をあえて混在させることによってドライバーに遠慮させて速度抑制させるという考え方がモビリティ・デザインにはある。「シェアド・スペース」と呼ばれるそれは、従来の歩車分離することで歩行者を保護するという発想の真逆を行くものだ。

たしかに歩車分離ができれば安全性は確保できる。それには相応のスペースを必要とするし、そうできない場合には手の打ちようがなくなる。シェアド・スペースは、空間もコンパクトですむ。

1980年代オランダで提唱された考え方だが、さすがに「ボンエルフ」や「ゾーン30」を生んだ国だ。交通計画の先進国である。シェアド・スペースの概念は、その後ドイツやベルギー、イギリスにも広がった。

ただ、白状するが、その時はそのような知識は持ち合わせていなかった。

全面石畳にする中で、歴史性とこれからの都市基盤の在り方に折り合いをつけたかっただけだ。

後で調べてみたら、「シェアド・スペース」といってもその形態は様々だった。

しかし、白線の内側に歩道(路側帯)の舗装材を滲ませるというこのスタイルは、私の調べた限りではオランダやドイツにもなく、どうも自分のオリジナルのようだ。

「これは警察が許してくれるかどうか…」

島根県の担当者の顔が一瞬曇った。

「どうしてです? 白線の位置を変えているんじゃありませんよ。車道の幅員が変わるわけではない。これはただの舗装パターンです」

そう言われてみればそうかということで納得してもらい、警察協議をお願いしたところ、後日、合意が得られたとの連絡をもらった。

これで住民会議に入れることになった。

 

住民会議

短時間でプレゼンティーションの資料を用意して、街づくりの考え方のイメージスケッチとともに住民会議に出た。最初の打合せから住民会議まで、実は2週間も経っていない。

平成16年10月のその日、天気がどうだったかすら今となっては覚えていない。ただ、夕暮れ時から始まった住民会議が古い伝統建築の中で行われ、その広間に30人くらいの人々が集まってくれたその光景だけは覚えている。白熱電球だっただろうか、まるでセピア色の古写真のように黄色みがかった灯りの下、高齢者から若者、ご婦人など、様々な方々の顔がぼんやりと浮かび上がっていた。

島根県とずっと平行線の話が続いてきた中、見知らぬ人間が突然東京からやってきて話を聞いてくれという状況である。なんとなく警戒気味の空気が漂っていたように見えた。実際そうだったのだろうと思う。

始まる直前に県の担当者から注意されたことがあった。

「反対者の中にかなり声の大きい人がいましてですね、たぶん何を言っても反対されると思いますので気を付けてください」

何をどう気をつければいいのか解ったものではないが、ともかくよく話を聞くことにしようとそれだけ考えて前に出た。

「こんにちは。東京から来ました小野寺といいます。本日はよろしくお願いします」

期待はしていなかったがあまり反応はない。

パワーポイントを使って丁寧に説明した。

豊かな景観資源に恵まれた津和野は、歴史を感じながらゆっくり歩くまちづくりが相応しいと思われること。まちのつくりとして、本来は殿町通りと本町・祇園丁通りは一続きで考えるべきこと。また、これが主軸になって、高岡通りという幹線道路と津和野川に挟まれたエリアが歩行者主体の風情で整備されることがまちにとって望ましいと思うということ。

そのためには、本町・祇園丁通りから自動車を追い出したい。

しかし、一方で商業車の荷捌きも必要だし、自動車を追い出すにも他に負荷を掛けられる路線もない。だから、デザインで歩行者優先の雰囲気をつくりたい。

スケッチで、路肩の石畳が車道に滲み出すデザイン案を見せた。

 

住民会議で示した津和野の整備イメージ図やスケッチ

左/まちのコンセプト 右上/車道を抑制する「滲みだし」のデザイン 右下/イメージスケッチ

 

本町・祇園丁通りの舗装構成と舗装パターン

左/標準図 右/詳細設計:大型交差点部のレイアウト

 

交差点部は、フィッシュボーンあるいは矢筈張りと呼ばれる、編み込み型の舗装パターで、相互に噛み合ってずれにくい構造にする。同時に街角広場的な風情が出る。

「石畳はできます。殿町通りとは違って、モルタルを使わない新しい工法です。島根県はその予算も確保してくれました」

それ以上の専門的な説明はあまりしない。

途中で口をはさむ人もなく、一通りの説明を終えた。

しばらく反応はなかった。始まる前と同じように静かな目が並んでいた。

何かしくじったか?

みなさん意見はありませんか、という司会進行の声に対し、しばし無言が続いた。

やがて、例の声の大きい反対者だとされる人の手が静かに上がった。

――来た。

「前回、東京の篠原教授が来たとき、石畳はできるでしょうというので、今日どんな話が聞けるのかと思っていました。私は少し文句が言いたい。島根県はけしからん!」

事務局一同に緊張が走る。

「どうして最初から篠原教授を呼ばんのだ! 最初からこういう話をすればよかったんだ」

――あれ?

「これはいい」

ほかの方々からも、「石畳にしてくれると聞いてほっとした」、「殿町通りと少し違うのがいい」など、肯定的な意見がつぎつぎと出され、会は終了した。

翌日、東京にいる篠原教授に顛末を伝えたところ、

「そんなこと、俺に言われても知らんよ!」

と大笑いされたのだった。

 

アクティビティのデザイン

このデザインはアクティビティを造形したものだ。今ではそう考えている。

むろん、どんな空間造形もアクティビティの操作でないものはないのだが、本町・祇園丁通りの場合、デザインの主眼が、ともかく歩行者主体の空間を舗装の造形操作でつくり出すことにあった。決め手はやはり、路肩の舗装パターンを車道部へ滲みだしたということに尽きる。

歩車道境界に段差はなく、一体につくり込むことでシェアド・スペースの条件が整う。「滲みだし」はこの効果を補強させるものだ。

このデザインが結果として「シェアド・スペース」となったことはすでに述べた。

実は、デザインを構想している際に頭にあったのは、「1-4 動線とアクセス」で述べたハイデルベルグの中央通り(ハウプトシュトラーセHauptstraße)だった。

 

ハイデルベルグのハウプトシュトラーセ

このリニアな空間にベンチを配置し、機能させている高等技術

 

「ベージュの小振りなコンクリートブロックが敷き詰められる中、小舗石の帯が滞留動線と移動動線を秩序よく分節している。照明柱とサインなど、立ち上がった工作物は、やや幅の広い小舗石ベルト上に配置されており、その一環でベンチまで置かれている。この通行量の中、しかも本来は溜まり空間でも何でもない動線の間隙をぬってベンチを配置した技は相当なものである。職人技とはこのことをいうのではないか。」そう述べた。

要するに舗装パターンだけで人間のアクティビティを操作できるということをこの通りで知っていたので、今回の「滲みだし」パターンが“効く”だろうということには確信があった。

このささやかな街路は、その後土木学会デザイン賞の最優秀賞をいただいたが、その際の吉村伸一審査員のコメントが、この通りのデザインの意図するものとその効果を的確に伝えている。

「整備前は歩道(路肩)を歩く人の割合が9割、整備後は歩道部4 割、車道部6 割になったという。つまり、路肩に追いやられていた歩行者が道全体を歩くようになった。事故は起きていない。歩行者がいると車は徐行する。人は端に寄り、また中に戻る。道を通るという感覚よりも生活空間に入る感覚。それが歩車共存の作法を生み出している。」

シェアド・スペースである。

 

整備前後の本町・祇園丁通り 左/整備前 右/整備後

 

整備後の本町・祇園丁通り(左右とも)

 

出雲大社 神門通り

昨年からこの本町・祇園丁通りのデザインは、同じく島根県による出雲大社の表参道「神門通り」へと引き継がれ、さらに進化を遂げようとしている。

神門通りは、大正2年(1913)年に整えられた比較的新しい参道だ。大正4年(1915)に地元の名士である小林徳一郎氏の寄進により堀川のたもとに大鳥居が建てられ、併せて280本の松並木が植栽されて参道の体裁が整った。このとき「神門通り」と命名されて、今や出雲大社の表参道というとこの通りを指すのが一般となった。

しかし、戦後自動車の増加によって歩行者空間は沿道建物と松並木にはさまれた狭小な部位に追いやられ、歩いて参詣するという参道本来の機能が阻害されるようになった。その結果、沿道商店街は次第に衰微し、参詣者とまちのにぎわいが連携しない状況に陥ってしまった。

 

神門通り南端 大正4年に建てられた大鳥居 勢溜(せいだまり)直前の坂道部と松並木

 

出雲大社が島根県を代表する観光拠点であるというのは今さらいうまでもない。平成25年は、六十年に一度の大遷宮(本殿遷座祭)だ。これを契機に現在島根県は、出雲市と一丸となって神門通りの大改修に臨んでいる。

平成22年度に交通計画の住民ワークショップが開催され、「シェアド・スペース」の概念が導入された。社会実験で道路の白線を移動し、路肩を拡幅して相対的に車道は縮小された。それだけで人の動きが変わった。

翌年の平成23年度は具体的なデザインのワークショップだ。このとき、津和野の実績から小野寺が設計者として選ばれ、同じく津和野で協働したプロダクト・デザイナーの南雲勝志氏とともにこのプロジェクトに参画した。

観光バスが通る重車両交通の中で、歩行者が気持ちよく歩ける雰囲気を実現させること。同時に、出雲大社参道にふさわしい形態として景観的にも鍛え直すこと。舗装はすべて石畳に打ちかえ、照明などストリートファニチュアは全て刷新する。これらの条件は津和野とほぼ同じものだ。

ちがうのは、ここが日本を代表する神社の参道であること、路肩に松並木がありそれを生かすべきこと、今度は車道部にインジェクト工法を使えることだ。

もちろん、ここでも津和野で用いた路肩舗装の「滲みだし」を使って車両抑制を徹底させ、「歩いて参詣する」という参道本来の機能を取り戻す。

また、出雲大社の本参道前が始まる大鳥居周辺の交差点は「勢溜(せいだまり)」と呼ばれているが、神門通りは勢溜の直前で街路が坂になって駆け上がるというのも津和野とは違うところだ。

島根県は、狭かったその坂道部と勢溜交差点を、観光客の規模に応じて空間的に改善すべく沿道を用地買収して幅員を大きく広げた。

坂道部の勾配は約8%程度もあり、冬の凍結時には健常者にとっても危険だ。

我々の提案は、広がった空間を利用して、沿道側に階段と平場が組み合わされたサブ動線を通すというものだ。その形を沿道の建て替え計画と同調させる。

公共空間としては、ゆるやかな階段動線が確保されることは安全面と使いやすさの両面でメリットとなる。

一方沿道商業者にとっても、勾配を受けて敷地内にそれぞれ段差処理のスペースを設けなければならないところ、8%が3%程度に収まるのであれば、敷地スペースを有効に使えるし、街路と敷地をつなぎやすくなる。

どちらにとってもメリットなのだ。

しかも今回は、街路整備と沿道建物の建て替えのタイミングが合う状況であり、設計を調整して官民で形状を合わせることが可能だ。沿道の街並みと完全に一体化された街路空間も夢ではない。

これを実現するため「坂道部ワーキング」を立ち上げた。

沿道の方々にそれぞれの建築計画を持ち寄って集まってもらい、道路の設計図にその建築計画図を落とし込んで一枚にし、それを大テーブルに広げてみんなで取り囲みながら、街路全体と敷地個別、それぞれの調整を図った。

車乗入れ部の位置、段差処理の位置・形状などを、それぞれの建築計画と、文字通りミリ単位での調整となる。

一方で街路のデザインとしては、階段とスロープが接する場所に出る段差を利用して植栽桝擁壁や照明柱を組み入れた。これまで坂道部には植栽がなく、神門通りの松並木も勢溜付近で途切れていたが、今回の整備でトータルにつながることになった。照明柱も連続する。

歩行者は、スロープと階段・平場部を行き来する。植栽桝擁壁は、この絡み合う動線に邪魔しないよう、丸みを帯びた柔らかな造形となっている(むろん、それだけの理由ではなく造形的なニュアンスもあっての形だが)。地場材の福光石を使い、腰掛けられるような形状にするとともに、フットライトも組み込んだ。

 

神門通り坂道部模型写真

 

スロープ部、階段・平場部、その中間の擁壁・植栽桝部。これらの組み合わせによって神門通り坂道部は、三次元的な空間造形となった。

さりげなくも意図的にコミュニケーションを誘発するデザイン。限られた街路幅員の中で、足早に通り抜ける人、ゆっくり沿道の街並みをひやかしながら歩く人、ベンチ擁壁に腰掛け休む人など、様々なアクティビティが、それぞれ秩序をもって共存する。

これは、第1・2章で述べてきたところの“参道型のにぎわい空間”であり、日本的な「(道行き型)広場」の造形だ。“人間活動の活性化を誘い生成する場”としてのオープンスペースが「広場」という空間概念だとすれば、この神門通り坂道部は一見街路デザインでありながら、実は日本の空間文化における「広場(的なるもの)」を体現しようとしている。

もちろん、住民参加ワークショップではそこまでは説明していない。これは設計者の中だけにあるコンセプトだ。

さらに別のコンセプトも潜んでいるが、それはまた別の機会に。

 

土木デザインノート

小野寺 康Yasushi Onodera

(有)小野寺康都市設計事務所|EA協会

資格:
技術士(建設部門)

一級建築士

 

略歴:
1962年 札幌市生まれ

1985年 東京工業大学工学部社会工学科卒業

1987年 東京工業大学大学院社会工学専攻 修士課程修了

1987年 (株)アプル総合計画事務所 勤務

1993年 (株)アプル総合計画事務所 退社

1993年 (有)小野寺康都市設計事務所 設立

 

主な受賞歴:
2001年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(門司港レトロ地区環境整備)

2001年 土木学会デザイン賞 優秀賞(与野本町駅西口都市広場)

2002年 土木学会デザイン賞 優秀賞(浦安 境川)

2004年 土木学会デザイン賞 優秀賞(桑名 住吉入江)

2008年 グッドデザイン特別賞 日本商工会議所会頭賞(油津 堀川運河)

2009年 建築業協会賞:BCS賞(日向市駅 駅前広場)

2009年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(津和野 本町・祇園丁通り)

2010年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(油津 堀川運河)

 

主な著書:
グラウンドスケープ宣言(丸善、2004、共著)

GS軍団奮闘記 都市の水辺をデザインする(彰国社、2005、共著)

GS軍団奮闘記 ものをつくり、まちをつくる(技報堂出版、2007、共著)

GS軍団総力戦 新・日向市駅(彰国社、2009、共著)

 

組織:
(有)小野寺康都市設計事務所

取締役代表 小野寺 康

〒102-0072 東京都千代田区飯田橋1-8-10

キャッスルウェルビル9F

TEL:03-5216-3603

FAX:03-5216-3602

HP:http://www.onodera.co.jp/

 

業務内容:
・都市デザインならびに景観設計に関する調査・研究・計画立案・設計・監理

・地域ならびに都市計画に関する調査・研究・計画立案

・土木施設一般の計画・設計および監理

・建築一般の計画・設計および監理

・公園遊具・路上施設などの企画デザイン

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