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2013.03.18
11|「人を繋げ、プロジェクトを動かす」という“しごと”
辻 喜彦(合同会社アトリエT-Plus建築・地域計画工房|EA協会)
この5年程の間に、地域再生プロジェクトの成果として、空間デザインの質のみならず、整備後の空間利活用等を含めた“市民・行政・専門家の協働によるまちづくりの実践”に対するウェイト(ニーズ)が随分と大きくなってきたと感じている。
5年前(2008年)というと、丁度、長年携わってきた宮崎県日向市駅周辺整備プロジェクトで、新・日向市駅が開業し、一段落した頃である。長い年月を要するまちづくりには、専門家の連携等による一体的、一貫した設計デザインの実現の重要性と、計画段階から市民参画の機会を促進しプロジェクトを進めていくことが、整備後のまちづくりを持続させるために有効な手法であることは感じていた。そして、未だ試行錯誤の最中ではあったが、そのような取組み方が、社会的にも少しづつ認知されはじめた時期でもあった。
そして一昨年前頃から、関わり続けてきたプロジェクト、一旦前線から退いていたり、停滞していたプロジェクト、また新規プロジェクトにおいて、市民と協働してまちづくりを進め、より良い空間、より愛着を持たれる空間を創りだしていくかをテーマとした「しごと」をさせていただく機会が増えてきた。
本稿では、なぜ私がこのような「しごと」に携わるようになったか、また、なぜこのようなことが「エンジニア・アーキテクト」の「しごと」なのか、自己紹介を兼ねた変遷を簡単に辿りつつ、これらについて述べてみたいと思う。
1.一人ぼっちの設計デザイン
私は、大学で建築を学んだ。建築家に憧れ設計課題に没頭しながらも、単体デザインのみをフィールドとして教えられる「建築設計教育」に疑問を持っており、次第に関心は広場や道路デザインへと移っていった。卒業設計では、明治神宮外苑・絵画館前イチョウ並木道を憩いの場にリニューアルする道路設計案を提出した偏屈な建築学生だった。
そのような経緯から、卒業後は、道路デザインができる仕事場を探したが、当時、建築設計と都市デザインの両面を生業としている設計事務所も、コンサルタントも、大学研究室も殆ど無く、結局、落ち着いた先が「アトリエ74建築都市計画研究所」というアトリエ事務所で、当時、先進的な浦和駅前「さくら草通り(歩行者専用道路)」が完成した頃だった。
その頃は、PCやCADはもちろんのこと、コピー機すら無く、ひたすら手作業で図面を描き、舗装目地を入れ、マーカーで着色し、積算し、手書きで報告書をまとめていた。
(訳も判らず、毎晩夢中で徹夜しながらも、時間をかけて、知識と技術を身に付けられた時代でもあった。今思い起こせば、そんな日々の「しごと」は、どちらかというと「職人」の世界であり、そのように体で覚えるしごとは、現在、最前線で時間に追われて頑張っている若手世代からすれば「非効率的そのもの」なのかもしれない・・・。)
入所した年(1982年)に、建設省(当時)は新たな補助事業制度として「歴史的地区環境整備街路事業(通称:歴みち事業)」を創設した。この事業制度の始まりが、その後の自分に大きく影響し、普通では接し得ない文化財の世界や都市計画の現場、師と尊敬できる多くの先生方からの研究室とは異なる現場での直接のご指導、そして地方都市との出逢い等を生み出してくれることになった。
現在ではごく普通となったが、歴みち事業は、基本的には単一路線ごとの事業である街路整備を(地区として)面的に捉え直し、複数の街路や広場を地区交通計画、都市計画制度に基づいて一体的に位置づけ、調査~計画~設計までを一貫して議論する委員会を設置して、推し進めていくというものである。対象地区の殆どは、伝統的建造物群保存地区またはそれに準ずる地区であり、歴史的町並み等の保存とその中を貫く都市計画道路の拡幅計画とのバッティングに折り合いを付けて、調和・共存させ、どのように歴史的環境としての価値を向上させていくか、ということが命題となっていた。その頃は、文化財系と都市計画系は犬猿の仲であり、保存か開発か、が常に議論されていた時代でもあった。
栃木県足利市足利学校周辺地区(1982年)を皮切りに、以後(事業制度は変わったが)、現在まで約30年間、この歴史的地区におけるまちづくり、みちづくりにプランナーとして関わることが、私のベースとなる「しごと」であった。
歴史的地区での「しごと」は、例えば、萩市外堀通り、福山市鞆町、益田市御土居通り、金沢市長町武家屋敷通り、下関市長府地区、柳井市白壁通り、川越市蔵造り地区、竹田市中心市街地、箱根町箱根関跡、掛川市掛川城周辺地区、姫路市城周辺地区、斑鳩町法隆寺周辺、大社町(現・出雲市)杵築地区、桑名市外堀地区、真壁町(現・桜川市)城下町地区、山鹿市旧山鹿地区、等々があり、数多くの町並みに通い、多くの事を学ばせていただいた。
川越市菓子屋横丁(1990)・当時はワークショップという言葉もなかったが、舗装材料や
デザインを地元住民・行政担当者と思考錯誤・議論しながら造った道。
下関市長府地区古江小路(1995)・舗装材を敷くことしか知らなかったが、昔からの地道を毎年住民が手入れするという「作法」を教えられた道。
山鹿市旧豊前街道(2000)・街のシンボルである八千代座復興に合わせた旧街道整備で、埋もれていた「樋石」の復元利用(文化財)や沿道町並み修景(建築士会)との連携の重要性を教えられた道。
当時の「しごと」は、担当者として現場に通い詰め、計画案を策定し、委員会に諮り、事業化し、街路や広場の設計を行い、地元住民や行政等と調整し進めていくというものだった。その一連のプロセス(構想・計画から設計、施工まで)を一貫して学べたことは、今の自分にとって、とても大きな財産となっている。現在、マスタープランから交通計画や景観計画、そして詳細設計、現場監理までのプロセスと調整事項等を理解できる「しごとの幅」は、これらの経験から得られたものである。
しかし、この「しごと」は、基本的には一人で背負って、5年~10年をかけて仕上げていくことだと考えていた。当時、同じような「しごと」をしている人間は殆どおらず、情報も悩みも共有できず、基本的には、一人ぼっちで黙々と進めていくことが自分の「しごと」であった。当然ながらそんなやり方には、限度というものがあるし、抱えた以上のしごとはこなせない。そして出来上がった結果を見届けることなく、次の現場へ移っていった。
そんな状況では、体はフル回転ではあったが、自分でも満足できる「しごと」は、ごく僅かである。多くの場合は、業務が途切れモノづくりまで至らなかったり、政策的理由で中断されたり、担当者異動で消滅したりしていき、その度に「繋げ方」「動かし方」が判らず、ひどく落ち込んだりもしていた。
しかし、そのよう苦渋や挫折の経験が、今の「しごと」へ結びついているだから、おもしろいものだとも思う。
また、手を離れたプロジェクトでも、当時の担当者の頑張りで続けられたり、近年では、EA協会の小野寺康さん、南雲勝志さん、崎谷浩一郎さんらが全く別ルートから仕上げの「しごと」に取り組んでくださったりもしている。本当に、ありがたいことです・・・。
2.仲間と共に取り組むということ
この世界に入って15年ほど経った頃(2000年前後)から、状況が変わってきた。
それまで国主導であった地方都市の公共空間整備は、地方分権へと移行し、事業制度も複数の関連事業をパッケージで一括して取り組める交付金制度に替わった。また、いかに法制度を柔軟に解釈するかで苦労した道路構造令なども地域事情が加味され、道路交通法もゾーン30やハンプ設置等が認められるようになり、景観法も制定された。そして、ワークショップ等の手法が一般化されるに従い、住民参加がまちづくりの基本形となる等、プランナーとしてのまちづくりへの関わり方も大きく転換(本当は、本質的、本来的な在り方に近づいたのですが・・・)し始めた。
こうした中で、桑名市や日向市、日南市等のプロジェクトを通じて、篠原修会長の指導の下、歴史や文化財については、矢野和之さん(㈱文化財保存計画協会)に教わりながら、設計デザインは、小野寺さんや南雲さんたちにお任せしつつ、第一級の方々と一緒にプロジェクトに取り組む機会が増えるようになった。一人で背負い込むことの限界と優れたチームで取り組むことの可能性の大きさ、出来上がりの喜びに気付かされた。
それは、時には、日向・塩見橋の設計であったり、課外授業であったり、竣工イベントであったり、また呑み方であったり・・・したが、それらを通じて仲間(設計チームのみならず行政担当者や地元のみなさんも含めて)と共有できた小さな成功体験や情感を積み重ねていくことが、本来のまちづくりにとって、いかに大切なことであることを体感したことである。
私にとっては、その中でも、特にターニングポイントとなる出来事が、日向市駅・開業イベントと日南油津・夢見橋の上棟式であった。
それまで積み上げてきたプロジェクトの一つの集大成となるこれらのイベントでは、プランナーとしてではなく、設計者と市民グループ、行政と各種まちづくり団体、さらに全国の仲間へ呼びかける「繋ぎ役」として企画段階から携わることが出来、最終的には大勢の市民が参加する大盛況なイベントとなった。
正直なところ、設計デザイナーとしては拙い才能に限界を感じ、かといって、国を相手に渡り合う腕っ節も持たない自分が、どの「立ち位置」で、まちづくりに携わっていけば良いのか悩んだ時期もあった。しかし、これらのイベント体験とその後の展開を通じて、この「繋ぎ役」こそが自分に出来そうな「しごと」ではないか、と意識し始めた。
日向市駅開業前夜祭(2008):日向市駅開業前夜に委員会等に参加してきた歴代メンバー約100名が同窓会と称して集い、お祝いをした。
日南油津・夢見橋上棟式(2008):堀川運河に架かる木橋の棟上を祝うために、市民主体で実行委員会を結成し、イベントを開催。市民約5000人が参画した。
3.人を繋ぎ、プロジェクトを動かすために
2010年、長年在籍していた事務所から独立し、新たに「アトリエT-Plus」を興した。不況の折、無謀だとのご批評も受けたが、それまでとは違う自分なりのやり方で、あと5年、10年携われるプロジェクトにどれだけ巡り合えるのかと考えた時、今しかないと決断した。
では、自分がやってみたいと感じた「人を繋ぎ、プロジェクトを動かし、より良いモノを創るしごと」とは何か? どのようにしていくのか?
近年、携わっている柳川プロジェクトの概要紹介を通じて、この「しごと」についてお話したい。
水郷・柳川は、他の観光地と同様に、団体旅行から個人旅行への観光形態の変化や地区内居住者の高齢化、商業活動の停滞等、優れた歴史文化を有しながらも多くの地方都市と同様に、地域活力の再生が大きな課題となっている。その中でも西鉄柳川駅前では、朝晩の送迎車両が駅前広場を無秩序に占拠し、駅に降り立っても「水郷らしさ」が感じられず、来訪者は、さっさと舟下りで街なかを通過し、沖ノ端地区(観光拠点)へ移動し、次の目的区へと去ってしまうという状況に陥っている。このような課題を解決するため、柳川市は、西鉄と協働し、駅前リニューアルに乗り出すこととなったが、調整事項が難航しプロジェクト自体が止まりかけていた(2010年)。偶然にも、現在の市担当者は、私が10年程前に柳川市歴みち事業で計画・設計に携わった時の担当者であり、先進地視察で日向市を訪れた際に、私の名前が話に出てきたご縁から駅前周辺地区の再生プロジェクトのマネジメントに声がけしていただくこととなった(2011年)。
「推進体制の構築と設計チームの編成」
本プロジェクトを建て直し、軌道に載せていくために、プロジェクト・マネージャーとして最初に求められたのが、推進体制の構築と設計チームの編成である。
柳川にふさわしい駅前空間を再生するには、都市計画、土木設計、交通計画、景観計画等に造詣が深く、かつ市と事業者との対極関係を総合的に判断してもらえる学識経験者の方々にもご参画いただき、関係者一同が議論できる大テーブルを用意する必要があった。そのために、以前から柳川に関わられている出口敦東京大学大学院教授、辰巳浩福岡大学教授と共に、日向市駅や油津堀川運河整備でご一緒させてもらっている篠原修東京大学名誉教授にもご参画いただくこととなった。
さらに若手で地域に入っていける学識者として、元同僚でもある高尾忠志九州大学特任助教にも加わっていただくこととなった。これで検討体制の骨格が造られた。
そして設計デザインを具現化していくために、南雲勝志氏(IDデザイナー)、小野寺康氏(土木設計家)、そして建築家は両氏と姫路駅前や出雲大社神門通りでタッグを組んでいる渡邊篤志氏、さらに牛久市駅前広場の交通計画で出逢った俊腕な五十嵐淳氏によって設計チームが編成された。これらの人材は、既に他のプロジェクトを通じて知り合っている既知の仲間から適任者を検討し、チーム編成していった結果である。こういう設計チームで「しごと」をすると、例えば、一つメイルを送ると瞬く間にアイデアや意見が返信され、本質的な議論がスピーディに進み、役割分担も自然にフォローし合える関係で取り組むことができる。この信頼関係が無ければ「モノづくり」を安心して委ねることはできない。
「計画段階からの市民参画機会の促進」
そして、自論である“持続する公共空間の担い手となる市民と協働したプロジェクト推進を実践していく”ために、地域に明るい高尾氏にコーディネーターとなってもらった。市内で活動している市民グループ約60名へのヒアリングを行い、駅前空間利活用のための市民ワークショップを立ち上げ、彼らの参画を促し、現在まで約10カ月間で計9回のワークショップを開催し、駅前利活用の方向性等を議論している(2013年3月末現在)。
また、地元の専門的市民(建築家、デザイナー等)と「柳川らしさを考える会」も立ち上げ、設計チームおよび市担当者とともに柳川にふさわしい駅前デザインの在り方や素材研究等を行っている。
さらに、市役所内の横断的連携や関係各課間の情報共有のための「庁内学習会」も立ち上げ、市役所若手職員の人材育成等にも力を入れようとしている。
以上のように取り組みを約1年間かけて構築し、3月には市民シンポジウム開催によって、これまでの検討内容を情報公開できる運びとなった。次年度からは、一般市民の方々も自由に会議を傍聴できるデザイン検討会議の開催と、市民と行政、設計チームが共に空間デザインや利活用方法を議論できるワーキングを設置していく体制へと発展させ、2015年3月の完成をめざしていく予定である。
柳川プロジェクトについては、事業としては、計画・設計段階から施工段階へと移行する過渡期であり、まだまだ予断は許されないが、何とか軌道に乗り始めたところである。
このようなプロジェクトを動かし、より良いモノを関係者が協働して創りあげていくためのネットワークを紡いでいくことが、私の「しごと」であり、決してフロントには出ないが、フロントや周りが気持ち良く「しごと」ができるための環境づくりやマネジメントを行うことである(この取り組み全体と役割の概念図を以下に掲載する)。
柳川プロジェクトにおける検討風景
(左・デザイン検討会議 /右・利活用市民ワークショップ)
【プロジェクト推進体制の構築について(取組み体制例)】
・プロジェクトの計画・設計に実質的に取組める設計WGを編成する
・行政+事業者+専門家による設計WGで議論した計画案を検討委員会へ提示し合意形成を図る
・設計チームは、各分野専門家とプロジェクト・マネージャーで構成する
●プロジェクト・マネージャーの役割について
・プロジェクトマネージャーは、プロジェクトの目標達成へ向けて、主要関係者との相互調整、協議等を行い、関係者相互および市民のプロジェクト参画意識の向上・共有化を図るとともに、一貫性のある円滑な事業推進を掌るためのネットワークを形成していく役割を担う。
4.プロジェクト・マネジメントという「しごと」
本稿の末尾に、私の携わっている「エンジニア・アーキテクト」としての「しごと」について述べてみたい。
私が携わっていることを、簡潔に言い表わすと、「地域活力を再生するために、より良いモノを創りだし、使い続ける“仕組み”を生み出すこと。」となる。下図の概念図に示すように、「将来像」のスキームづくりから「モノづくり」を通じて、地区を支える空間とそれを持続させていくための「担い手」を創りだすことを戦略的に、一体的かつ一貫してマネジメントしていく「しごと」である。その“仕組み”の一つが、人と人、モノと人との「繋ぎ方」であり、私の立ち位置は、ここにあると考えている。
設計デザインやまちづくりというと、華々しい部分にスポットが当たる場合も多いが、複数多様な人の関わりの中で、時間をかけて街の活力を再生していくためには、このような「繋ぎ役」も十分に「エンジニア・アーキテクト」の「しごと」であると考えている。
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辻 喜彦Yoshihiko Tsuji
合同会社アトリエT-Plus建築・地域計画工房|EA協会
資格:
一級建築士
技術士(建設部門)
博士(工学)
略歴:
1960年 東京生まれ
1982年 東海大学工学部建築学科卒業
1982年 (株)アトリエ74建築都市計画研究所 勤務
2001年 同 取締役、計画・設計部部長
2007年 宮崎大学大学院農学工学総合研究科 博士課程入学
2008年 合同会社アトリエT-Plus 設立
2010年 宮崎大学大学院農学工学総合研究科 博士課程修了
主な受賞歴:
1992年「第2回兵庫県さわやかまちづくり賞」 <まちなみ部門・姫路市道今宿二号線設計>
1995年「静岡県都市景観賞 優秀賞」 <掛川城と城下町風街づくり計画設計>
2003年 「グッドデザイン賞(新領域デザイン部門)」 <日向市に於ける「木の文化のまちづくり」の実践>
2005年「グッドデザイン賞(新領域デザイン部門)」 <ふれあい富高小学校特別授業「移動式夢空間」>
2010年 日本照明学会 優秀賞 <福岡県柳川市外堀線>
主な著書:
2006年「歴史を未来につなぐまちづくり・みちづくり」(共著)学芸出版社
2009年「新・日向市駅」(共著)彰国社
組織:
合同会社アトリエT-Plus
代表社員 辻 喜彦
〒 102-0074 東京都千代田区九段南2-2-5九段ビル2F
TEL:03-3239-0151
FAX:03-3239-0154
業務内容:
・都市計画、建築、土木等に関わる計画、設計、コンサルタント業務
・まちづくりに関わるコンサルタント、マネジメント業務
・その他上記に付帯する業務
SERIAL
- EAプロジェクト100
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12|西鉄柳川駅周辺地区
- エンジニア・アーキテクトのしごと
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