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2013.08.10

13|都市デザインの仕事 −40年間をふりかえる−

田中 滋夫((株)都市デザイン|EA協会)

この連載における私の役目は、都市空間のデザインにおける草創期から今日に至る状況を自分の作品を通じてお伝えすることであると思う。都市計画の領域でデザインがまともに議論されるようになり始めたのは、1960年代後半からであろうか。行政との間で、この事についてまともに意見を交わせるようになったのは、それから30年位たってからではないかと思う。今日でもいまだ一部にしか関心を持たれていないし、体系的に実践に移す環境は整備されていない。しかし、私自身のエポックとなった作品をいくつか紹介することで、その間にたどった道のりを少しは知って頂けるのではないかと思う。

1966年(昭和41年)に大学院に進むときに、師と決めていた吉阪隆正先生が都市計画の研究室を持つこととなり、私の都市空間デザインに関わるキャリアが始まった。

当時、大学院は学園紛争でまともな授業はほとんどなかったが、ゴードン・カレンの「TOWN SCAPE」、エドモンド・ベーコンの「DESIGN OF CITIES」等を渡され、都市空間にデザインという活動領域がありそうなことを知り、それに取り組んでみたいと思うようになった。修士課程を終えて、社会人経験もないまま友人と建築グループを設立し、コンペに応募したり、雑誌に寄稿したりしながら、都市空間デザインに主体的に関わって食べていく道を模索していった。

ここで紹介する作品は、そのようにスタートしたものが、試行錯誤しながら模索する過程でのエポックとなったものである。都市空間を形成しその質を高めていくうえで当然必要とされる作業が、日本の予算制度、官僚体系等の中で構造的に為されえない、または、大きな困難が伴うことをその過程でいくつか知っていったのだが、あわせて何とかそれをブレークスルーしようともがき続けてきた。その要点を5つの作品を通じてお伝えしたい。

1.泉中心市街地形成プロジェクト(1973年~1988年)

図1-1:泉中心市街地 イメージパース

 

吉阪研究室の在籍最終期に「杜の都 仙台のすがた-その将来像を提案する-」(1973年度日本都市計画学会石川賞受賞)に関わった。その縁で、当事20代の若輩ながら、宮城県泉市(現在は仙台市泉区)の総合計画の策定をまかされることとなった。

総合計画の目的は目標人口の設定と数多く準備されていた団地計画の調整にあったのだが、仙台市地下鉄南北線の終点駅が用地の関係で全く不適切な位置に計画されており、それを修正し、市街地整備と合わせて中心市街地(仙台に対しては副都心)の形成を図る必要があった。総合計画の策定から始めて、約10年かけて中心市街地の骨格を形成したプロジェクトであり、私の都市空間形成に関わるいくつもの重要な原点をつくったものと言える。4点ほどにその要旨をまとめる。

まず第一点として、鉄道と都市計画の連動がほとんど成されていないことを知り、その連動を何とか導き出した。鉄道計画は鉄道のみを、都市計画は所与として与えられた線路及び駅空間を前提として都市形成のプランを進めるやり方が当たり前であることに大きな衝撃を受けた。同時に、この様な事にも粘り強く対応していけば、何とか道が開けることも知ることができた。

第二に、市街地形成の基本手法を区画整理によったが、それを担当する土木設計の人達に都市空間形成についてデザインの志向性が全く欠如していることをしみじみと理解した。周辺を含む景観の取り込み、区画整理によって生まれる街路、街区利用の相互作用による都市空間の創出、誘導、等々、空間形成の基本スケッチなしにいきなり道路設計を進め、それが市街地設計そのものとなるその方法にとまどうばかりであった。市からの委託業務の形態を工夫しながら何とか基本構成を組み立て、それを元に具体に落としていく方法を探り、空間デザインにつなげ重ねる作業を続けた。

第三は、結果として本プロジェクトはラッキーであったが、担当職員の継続性が非常に大きな鍵を握るということを知ったことである。行政の内部には、基本的に空間の質を問うという姿勢は欠如している。従って担当職員の個人的な熱意によってデザイン作業は支えられている。その職員の交代によっては、それまで積み上げてきたプランがいとも簡単に崩壊してしまう。一時は危ない時期もあったが、このプロジェクトにおいては、自らの郷土の市街地形成を中心となって実現しようという意欲に満ちた若手幹部職員がおり、彼が継続的に担当し続けたことによって成立しえたと言える。

第四は、公共空間の設計においてデザインという観点が欠如していることを知ったことである。土木分野において著しいが、建築においても、その発注のメカニズムから地域に求められる空間を設計しうる能力、技能の起用について全く関心が持たれておらず、結果として生まれてくる空間の質、デザインについて、発注する行政は関心を持たない(ないしは持ちたくとも持ちにくい)環境が常態的に蔓延している世界であった。これについては当事の私には対応する方法はなく、実際に設計・施工される公共空間(ペデストリアンデッキ、広場等)の細部の表現については、ほとんど関与できなかった。

実績もなく駆け出しだった私の意欲を買ってくれた国・県・市の人たちとの間で、このプロジェクトを通して属人的ネットワークが生まれ、それが結果としてプロジェクトの実現を支えた。いくつもの狭い隘路をくぐり抜けながら、鉄道と市街地形成の連動はかなり実験的な試みを含めて相当の達成ができたし、区画整理をベースとするプランも基幹部分をまかせてもらえるような協働が結果として成された。ただし、第四の公共空間の設計については、一部を除いてほとんど関わることができなかった。その部分にどうアクセスしていくかが、その後の仕事を行う上での宿題となっていった。

 

図1-2:泉中心市街地 完成後全景

 

2.141ビル市街地再開発事業(1982年~1987年)

仙台市地下鉄南北線の匂当台駅出入口と合わせた商店街活性化拠点づくりの再開発事業について、事業・空間の両面のプロデューサーとして関わったプロジェクトである。それまでの再開発事業の実績について、権利調整や不動産事業としての成立性に偏るあまり、市街地の重要な拠点を担うプロジェクトとしての特性を活かしきれていないことに、不満と共にチャンスを感じていた。コンセプト重視をベースとして空間構成をしっかり行えば、再開発事業は大いに活用できると確信していた。このため着手段階から商業ソフトプランナーに協力を求め、事業・空間コンセプトの確立に意を注いだ。その効果は大きく、それまでの再開発の進め方に新たな局面を加えることが出来たと思っている。

コンセプト重視のプロジェクト運営により、商業プランニング、建築設計、公共施設構築(施設内容から設計に至る一貫した作業)、ストリートファニチャー等のデザイン、CI計画実施に加えて権利調整を含む事業構築等、それぞれのプロフェッションを納得いく形で組織することが出来、円滑なコラボレーションが達成できた。またそれには、担当市役所職員の先見性、行動力が不可欠であったことも添えておかなければならないだろう。

さらに、この種の都市空間形成事業(民間が主体となって、行政と持続的に連携する必要のあるプロジェクト)は、運営管理を担う母体形成が大きな鍵を握ることを知った。その組織成立、組織維持に係る事業シミュレーションを中心とするいくつかのノウハウを得たことは、その後の活動領域を拡げるのに大いに役立った。

このプロジェクトは、開業後23年で商業部分を一括で百貨店に任せることとなり、そのリニューアルにも関わることとなった。事業構成上、百貨店の表現にはそれ独自の表現があり、この変更により都市空間を支えていた多くの細部表現がはぎ取られることとなった。骨格的な空間そのものは残ったものの、市民空間をきめ細く表現していた細部表現の価値はとても重要であることを、失って改めて再認識することとなった。日本の都市空間においては、細部の表現は移ろいやすい。移りゆくものと永続するもの、そこをつなぐ方法は今後とも大きな宿題になると感じている。

 

 

図2-1 :141ビル 全景  図2-2:141ビル 夜のライトアップ

 

図2-3:141ビル センターフォーラム

 

3.ぶらんどーむ 一番町:仙台一番町一番街商店街高層アーケード(1988年~1993年)

141再開発事業に続いて、仙台一番町商店街活性化の核となったプロジェクトである。プロジェクトそのものは、アーケードの企画・構想・設計であるが、街づくりとの連動を強く意識し、仙台の中心である一番町商店街全体の活性化に大きな寄与をなし得た。

このプロジェクトを通じて、日本の道路行政のあり方を深く知り、都市空間について大きな制約をもたらしているその内実・メカニズムを知った。アーケードは道路占用物であり、その建設には道路管理者の許可を得なければならない。道路占用の許可にあたっては、警察、消防等の協議・了解が必然であり、これらの裁定メカニズムは大きな硬直状態にある。そのもとでアーケード建設を進めるには、その辺を熟知したアーケード業者でないとまず太刀打ちできない。そこをブレイクスルーしなければ、街づくりとして公共空間は生まれ得ない。柱の配置、採光の取り方、梁のかけ方等、道路管理上の慣行で生まれた合理性を持たない制約を超えたところでのデザイン勝負が不可欠である。そこをあきらめてしまっては、都市の真ん中にそれなりの空間を作る意味が生まれない。この商店街では強固なリーダーシップが形成されていたが故に、粘り強く制約をひとつひとつクリアして、求める都市空間の実現に至った。

現在では、道路空間の利活用について、多くの実践が重ねられ実例も多くなってきている。しかしほとんどは個別の打開策で勝ち取られたものである。そろそろ、これらの実践をより効果的に進める体系に組織的に組み立てる必要が出て来ているのではないだろうか。際限なく電線が占有物として空中にまかり通る一方、街なかの活性化の鍵を握るストリートデザインは未だ個別打開に苦しめられている。軽土木とでも言うのだろうか、ストリートデザインの諸側面の整理・再統合が待ち望まれるものである。

 

 

図3-1:ぶらんどーむアーケード(昼間)  図3-2:ぶらんどーむアーケード(夜間)

 

4.秋田駅及び駅周辺整備プロジェクト(1988年~1999年)

下関を始めとして国鉄跡地処分にからむ一連の整備計画に携わっていった。その中で秋田新幹線の開業にあわせる意味もあり、秋田駅周辺で駅舎改造を含めて鉄道空間と都市空間を一体で再構築する機会を与えられたプロジェクトである。

その主要事業として、駅舎空間の根幹に自由通路という都市側が負担する空間を位置づけ、既設のステーションビルを刷新し、新幹線出発駅にふさわしい空間整備を行った。これにあわせ駅前広場の改造も進め、駅前メインストリートにつなげる等の整備を一貫したデザインコンセプトのもとに実現した。

JR東日本において、その後のいわゆる「エキナカ」プロジェクトにつながる発端となったプロジェクトである。駅を都市空間として位置づけし、その公共性の中に自らの事業展開を進める基礎的な骨格を作り上げる先行例となったものである。

ここではペデストリアンデッキの実施設計までを担当した。その設計にあたって、参加型ワークショップを全面的に採用して進めた。私としては初めての試みであったが、ユニバーサルデザイン、色彩の選択、細部の表現など公共空間の設計の進め方としては大きな効果があることを確かめることができた。

駅での人々の動き~流れる・たまる・憩う・買い物をする~、そして車とのスムーズな連動、拠点駅に必要な大空間と小空間の構成のメリハリを意図し、それなりに達成することが出来たプロジェクトであった。

図4-1:秋田駅周辺 全景

 

図4-2:秋田駅 自由通路

 

5.ラトブ:いわき駅前市街地再開発事業(2002年~2008年)

福島県いわき市において、行き詰っていた駅前再開発を再開発組合と事業協力者からの要請で、地域活性化プロジェクトとして事業を組み直し、実現に至ったものである。

行き詰っていた事業は、その構成する機能そのものに大きな問題はなかったが、要請される複合要素を都市空間として構築するうえでの基本的な視点に欠けていた。そのことが阻害要因となって事業成立を妨げていた。図書館、商業施設、駐車場、商工振興施設、オフィス等が、それぞれ勝手な要求でひとつの建物に無理やり一緒に配置された結果、エレベーターが無数に配置される等どうしても使い物にならない建物が計画されていた。そのうえ、同時に整備される駅舎改築と合わせたペデストリアンデッキの活用も視野に入れられていなかった。

これらを構成するうえで、ビルはひとつの理念で設計されるべきことを訴え、都市空間としての共通のコンセプトのもとにまとめられる必要から再構築を進めた。再構築にあたっては思い切って大ナタをふるい、利用者の立場から使いやすく納得できる空間にまとめることに集中した。その基軸においたのが、駅から中心商店街に至る中心動線の形成と重視である。これら都市空間に求められる、ごく当たり前の構築を行うことによって、ずいぶん構成がすっきりし、元々能力のあった建築設計者の腕前が良い形で発揮され、建築デザインもずいぶんと質の高いものとなった。

また、これらの複合する機能をまとめる運営管理組織(必然的にまちづくり会社の性格を帯びることとなる。)が不可欠であり、これについて時間はかかったが、商工会議所との協働により立ち上げ、事業に責任を持つ継続的な組織形成を行うことができた。

このプロジェクトでは、再構築等の段階、運営管理組織の形成方法等で行政担当幹部との行き違いが生じ、大きな苦労が伴った。民間事業者側に腰の据わった人物がおり、長期的な視点でこの事業の運営にあたり、その障害を何とか乗り切ることができた。その後の東日本大震災をのり越えて、今は行政とも良好な関係にあると聞く。

 

図5-1:いわき駅前再開発ビル 全景

 

図5-2:いわき横丁(1階通路)

 

5つのプロジェクトを例に挙げたが、土木と建築の間に横たわる深い谷間、プロジェクト毎に求められる各領域とのコラボレートの重要性とそれを実際の事業で形成することの困難、行政内部のタテ割り意識と職員交代のシステムや発注メカニズムに代表される都市空間形成に関わる無理解と能力の欠如等、この仕事を始めた頃に知った大きな衝撃は緩和されるよりは強化されているようにも感じる。他方、民間を中心とした街づくり活動の自主的な展開への進展、鉄道と都市のコラボレートにみられる専門家内での協働の重要性の認識、多くの制約を受けながらの熱意ある人々(行政を含めて)の少しずつの増加など、前向きな面が増えてはきていることも重要であろう。

東日本大震災の復興プロジェクトに加わっているが、そこに露呈されている我が国の街づくりの基本的な隘路のほとんどは前者にあり、望みのほとんどは後者にある。その状況はとても残念な状態としか言いようがないが、今しばらくはこのまま続かざるをえないと見ている。あえて、かなり時間を経たプロジェクトをいくつかサマリーした故由でもある。

 

 

< 参考文献 - 各プロジェクト詳細については下記に所収 >

1.『図説 都市デザインの進め方』,田中滋夫他共著,丸善,2006年

2.『日経アーキテクチュア1987年6月15日号』,日経BP社 / 『図説 都市デザインの進め方』,田中滋夫他共著,丸善,2006年

3. 『日経アーキテクチュア1987年6月15日号』,日経BP社

5.『季刊まちづくり21号:特集 まちづくり市民事業と中心市街地再生』,学芸出版社)

 

エンジニア・アーキテクトのしごと

田中 滋夫Shigeo Tanaka

(株)都市デザイン|EA協会

資格:

技術士(建設部門)

一級建築士

再開発プランナー

 

略歴:

1943年 東京生まれ

1966年 早稲田大学理工学建築学科卒業

1968年 早稲田大学大学院建設工学都市計画専修 修士課程終了

1968年 DAMDAN創設 主宰

1969年 早稲田大学大学院建設工学都市計画専修 博士課程入学

1972年 早稲田大学大学院建設工学都市計画専修 博士課程中退

1979年 (株)都市デザイン設立 代表取締役

2003年 代表取締役退任 代表就任

早稲田大学講師(1979年-現在) 東京理科大学講師(2004年-現在)

早稲田大学都市地域研究所上席研究員(2008年-)

 

主な受賞歴:

都市計画学会石川賞(杜の都仙台その将来像を提案する。吉阪研究室在籍)

仙台市都市景観賞(ビーブ日専連仙台会会館)

都市景観大賞(ブランドーム一番町)その他設計競技最優秀賞等入賞多数

 

主な著書:

図説都市デザインの進め方(2006年丸善:共著)

まちづくり市民事業(2011年学芸出版社:共著)他

 

組織:

(株)都市デザイン

代表取締役 遠藤 二郎

取締役:代表(事業部門担当) 田中 滋夫

〒102-0076 東京都千代田区五番町2-17

TEL:03-3261-9570

FAX:03-3261-9565

HP:http://www.toshidesign.co.jp/

 

業務内容:

・都市計画及び地域計画、その企画・研究・基本計画及び設計

・土木計画、土木設計監理、建築計画、建築の開発計画

・前号に付帯関連する一切の業務

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