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2012.02.01
06-3|文化的景観保全とまちづくり その3:熊本県上益城郡山都町における文化的景観保全の取り組み
田中 尚人(熊本大学政策創造研究教育センター|EA協会)
1.白糸台地の文化的景観
熊本県上益城郡山都町には,平成20年7月に棚田として初めて国の重要文化的景観に選定された『通潤用水と白糸台地の棚田景観』があり,平成22年2月には台地全域がその選定範囲となった。その重要な景観構成要素である下井手(したいで)の設計については,EA協会機関誌7月号から3回に渡り西山穏氏(株式会社西日本科学技術研究所)が「通潤用水下井手水路の改修」※1と題してレポートされているので,そちらを参照されたい。
本稿では同じ白糸台地を対象に,前回と同様,文化的景観保全の現場における,1)地域住民,行政,第3局,3者の協働による「自治」の場,2)景観を契機とした地域のための「総合行政」の場,2種類の協働の場づくりについて考えてみたい。
2.文化財保全と一次産業
白糸台地では,文化的景観の保全に取り組む以前から,他の中山間地と同様に様々な課題を抱えていた。農家にとっては通潤用水の漏水対策や維持管理用に重機が入れる程度の管理用道路が欲しいなど「農業」の維持が中心課題であった。白糸台地全体の「文化財」としての価値付けを模索していた教育委員会生涯学習課にとっては,「農業」だけを優先させ,万一通潤用水が全てコンクリート三面張りになってしまったりすれば,用水の「文化財」としての保全以外に,「景観」の保全も視野にいれなければならない。そもそも少子高齢化が厳しい白糸台地にとっては,井手浚いや草切りなどの区役の担い手不足,つまり「地域振興」的課題や,急傾斜地に立地する居住地域では「防災」などの課題も存在した。このように,様々な主体が通潤用水に対し,それぞれの機能の保全を要請していた。br />
様々な要請に対して,その解決の糸口となったのは,日本では珍しい「アブラボテ」と呼ばれる小さな淡水魚(タナゴの仲間)こそが,通潤用水を必要とした白糸台地の自然環境の価値の「生き証人である」とし,その生息環境を守る必要があると主張した鬼倉徳雄氏(九州大学大学院農学研究院助教)の主張※2であった。また,この「生物多様性」の保全という新たな要請を含めた6つの要請(図-1)を,近自然工法によって見事に実空間に成立させた西山氏らの技術的解法が果たした役割は大きい(写真-1)。br />
しかし,誰もが最大の功労者として認めているのは,教育委員会生涯学習課の文化的景観担当者である西慶喜氏の調整力であった。「防災・文化財・景観・農業・地域振興・生態系」そのいずれもが白糸台地の文化的景観保全にとって重要な要件であり,相互に関連しあい,また排反する場合もある要件であった。正解の糸口さえも見えない状況のなか,関係するステークホルダーと何度も交渉し,同じテーブルで粘り強く対話を重ねて「成解」に辿り着いた,関係各位の努力も評価されてよいはずである。白糸台地における文化的景観の本質的価値は,多様性の中から健全な議論の末に生まれたものであるからこそ,その保全は関係各位の協働の源泉になりうる。
図-1 文化的景観保全=地域づくりの要件
写真-1 改修後の11号水路
図-2 重要文化的景観位置図
3.自治と総合行政
平成22年7月,私たちが呼びかけ,教育委員会の協力を得て白糸台地において開催した第14回風景デザインサロン『白糸台地の自治とその風景を考える』ワークショップ(以下,WSと略,写真-2)において,私は西氏の口から初めて「総合行政」の必要性をうかがった。同年2月には3次選定を受け,白糸台地全域が文化的景観の選定区域(図-2)となり,6月には地域住民が主催する「文化的景観選定の祝賀会」が開催され,前夜祭では「棚田水あかり」,祝賀会では環境評論家の富山和子氏の講演会などのイベントも実施され,「自治」の気運も高まった時期であった。白糸台地の文化的景観保全において,「自治」に呼応するかのように「総合行政」が展開されはじめ,山都町の庁内調整において「文化的景観」が果たした役割が徐々に高まりつつあったのではないか,と推察される。
1)農業/農政
通潤用水開削以来,白糸台地の農民による自治の実践主体であった通潤地区土地改良区の理事長本田陽一氏は,上記のWSの際,約160年かけて培ってきた白糸台地の農業の伝統を継承しつつも,「外部との人々との交流の中から何かを学ぶことも重要であると考えている」,「農家も変わっていかなければならないのだろう」とも発言された。現在でも,通潤橋を通った一筋の水を,建設当初からのルールに基づいて公平に利用している白糸台地の農家の方々は強固なコミュニティを堅持している。しかし,少子高齢化の波は,白糸台地にも確実に押し寄せており,近年,様々な区役が農家の重荷となってきている。
白糸台地では,農林振興課が担当して平成21年度から3ヶ年かけて「農村集落ビジョン策定事業」に取り組んでいる。これは,景観農振を見据えつつ,まず現状の集落環境を地域住民とともに認識し,地域の10年後の将来像を見据えよう,という取り組みである。熊本県ふるさと水と土指導員の長井勲氏をリーダーとして,白糸自治振興区女性部や各集落(字)単位を対象として,地域住民が日頃の生活の中で捉えている地域の宝物や課題を地図上に抽出し,農村としての地域の将来像を共有しようという丁寧なWSを実践しておられ,農家,非農家を問わず,同じ集落に住む地域住民としての総意づくりに役立っている。このWSの場では,文化的景観または景観について言及されることも少なくなく,教育委員会生涯学習課と農林振興課の連携が既に実施されている。
2)観光
山都町の観光と言えば,長らく通潤橋が代名詞となっていた。熊本県内の小学生は皆,3,4年生の地域の学習の時間で布田保之助(ふた・やすのすけ)が命じ,矢部手永(やべてなが)の人々が築造したこの通水橋について学び,現地に見学に来るのである。通潤橋の中央部には,本来は農閑期に目詰まりを防ぐためのフラッシュ排水を行うための放水口が設けてあるのだが,この放水があまりに見事(写真-3)であり,かつては有料(5,000円/回)で実施していたため,かつては年間700回を超える放水が行われていた時期もあった。しかし,干魃の恐れがある際には放水が控えられたり,放水の振動により通潤橋の石積みが孕み出す危険性が指摘されたり,何よりも,通潤橋の目の前に設けられた道の駅に観光バスが停まり,トイレ休憩と観光放水,せいぜい通潤橋周辺の散策程度で観光客が帰ってしまう「通潤橋頼みの観光」には,地域の方々も疑問を持っておられた。
写真-2 WSの様子(2010.7.3)
写真-3 通潤橋の放水
通潤地区土地改良区と教育委員会生涯学習課,商工観光課は,重文景への選定を契機に,通潤橋のみを見て帰ってしまっていた観光客に,白糸台地全体の魅力を知ってもらう活動を模索している。観光ボランティアガイド,民泊,ブランド形成なども視野に入れながら,押し寄せる観光客に対するルールづくりなども必要となるであろう。まさか,自分たちの生業の場である棚田の景観が特別だとは,未だに実感が湧かない農家の方々も多い。しかし,2011年の8月には500名程度のツアー客が炎天下の白糸台地を訪れ,ウォーキングを楽しんだ,という実績も既に得ている。近年,観光はオルタナティブ・ツーリズム,着地型観光の時代と言われ,まちづくり,地域づくりと密接な関係にある。今後,企画振興課などとの連携も必要となってくるであろう。
3)地域づくり
2010年6月の地域住民主催の「重要文化的景観選定の祝賀会」は,白糸台地にある白糸第一自治振興区の中に,地域づくりに感心を持つ人々を「準備会」のメンバーとして結束させる機会となった。この準備会メンバーが中心となって2011年7月,より文化的景観と深く関係することになる「棚田景観プロジェクト会議」が結成された。農家だけで構成される通潤地区土地改良区に比べ,非農家を含み,かつ自治振興区内の組織であることから,棚田景観プロジェクト会議は,より一般的な地域住民の考えを代表していると言える。
企画振興課が所管する自治振興区の地域づくりは,例え官主導であっても実質的に,地域づくりの担い手である地域住民が活動していないと協働とは言えない。2010年7月に実施した『白糸台地の自治とその風景を考える』WSにおいても,羽貝正美氏(元首都大学東京教授/現東京経済大学教授)に「自治」に関する講演を頂いた。たった一年半ほど前であるが,農村において景観保全がもたらすメリットについて会場から質問があり,「棚田景観を守るために米をもっと食べよう」というような議論もなされた。ところが,昨年11月に,フランスよりアンドレ・ギエルム氏(フランス国立工芸学院教授)をお招きして開催した『技術史家とともに白糸台地の文化的景観を考える』WS(写真-4,5)では,教育委員会生涯学習課とともに棚田景観プロジェクト会議がより前面に出て対応して下さり,文化的景観を入り口としながらも,農村の維持や地域アイデンティティの形成,地域資産として農村風景を保全していこう,というより本質的な議論がなされた。
写真-4 WSの現場見学(2011.11.24)
写真-5 約60名が参加された意見交換会
4.地域らしさの基盤としての風景
いま,白糸台地では,文化的景観の整備・活用段階に入っていると言える。これまで,地域の内部だけで共有されてきた文化的景観の本質的価値が,地域外の人々にも示され,そのための情報発信,その共有手法が次の課題となってきている。通潤用水という「農業基盤」であり,「文化財」でもある農業水利施設を基盤として成立した白糸台地の棚田景観を,今後も保全し,その価値を創造していくためには,自治を基盤としながらも,「地域を開いていく」必要があるだろう。
この際,私が重要な視点であると考えるのは,フランス語の「Patrimoine(パトリモアン)」という概念である。日本語に直訳すると「遺産」となるのであるが,単なる「遺産」では表現できない深い意味が備わっている。Patrimoineは,英語に訳すとHeritageであり,Estateであるそうだ。つまり,過去から継承してきた価値を持つHeritageであるだけでなく,現在も価値を持つ資産Estateである,ということを意味する。また,この現在価値は,目に見える価値であるだけでなく,ソーシャルキャピタルや地域アイデンティティの拠り所となる目に見えない価値をも含んでいる,とのことであった。
人々の心のなかにも風土があり,人々を生活の場にも風土が現れている。風景は,地域らしさの基盤であり,人々の心の拠り所でもある。
※1 西山穏:「通潤用水下井手水路の改修」その1,その2,その3,EAA WEB機関誌,2010.7-9.
※2 西慶喜・西山穏・田中尚人:「通潤用水と白糸台地の棚田景観」の保全に関する地域の取り組み,土木学会景観・デザイン研究発表会講演集,p.318-326,2010.12.
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田中 尚人Naoto Tanaka
熊本大学政策創造研究教育センター|EA協会
資格:
博士(工学)
略歴:
1971年 京都生まれ
1995年 京都大学工学部土木工学科卒業
1997年 京都大学大学院工学研究科環境地球工学専攻 修士課程修了
1998年 京都大学大学院工学研究科環境地球工学専攻 博士後期課程中退
1998年 京都大学大学院工学研究科 助手
2003年 岐阜大学工学部社会基盤工学科 講師
2006年 熊本大学大学院自然科学研究科 助教授
2007年 熊本大学大学院自然科学研究科 准教授
2009年 フランス国立工芸学院(CNAM)客員研究員
2010年 熊本大学政策創造研究教育センター 准教授
主な著書:
環境と都市のデザイン 表層を超える試み・参加と景観の交点から、学芸出版社、2004.11.(分担執筆)
土木と景観 風景のためのデザインとマネジメント、学芸出版社、2007.4.(編著)
風景のとらえ方・つくり方 九州実践編、共立出版、2008.11.(分担執筆)
組織:
熊本大学政策創造研究教育センター
〒860-8555 熊本市中央区黒髪2-39-1
TEL:096-342-2040
FAX:096-342-2040
HP:http://www.cps.kumamoto-u.ac.jp/
業務内容:
・土木一般、造園、文化財保全、都市開発、都市計画、まちづくりに関わる景観デザイン・プランニング・マネジメントに関する調査、研究、コンサルティング
・その他上記に付帯する業務