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2011.10.01

06|ウォーターフロント再考

■“なんて贅沢”なウォーターフロントとの付き合い

都市のウォーターフロントを研究の中心に据えたのは1970年代の始めであった。大学助手のころ、4年生の設計課題の場を求め、千代田線沿線を歩き回り、隅田川に辿りついた。山の手でも下町でもない、中途半端な東京・中野で生まれ育ち、身近な川といえば、氾濫川として有名な川幅10数メートルの妙正寺川(神田川支流)しか知らず、間近に見る隅田川と対岸のスカイラインが一体となった雄大な風景は格別のものだった。この水面を見ながら、また借景としながら暮らしたら“なんて贅沢”か、という感慨がウォーターフロントとの付き合いのはじまりだった。
当時先進的な都市・建築雑誌であった「都市住宅」(鹿島出版会)1974年7月号に、川と周辺の人々との関わりをまとめた「隅田川悲歌」、1975年7月号に「ウォーターフロント」(写真1)が特集として掲載された。わが国でウォーターフロントと本のタイトルに記されたのはこれが初めてであろう。内容は、海外の建築雑誌に取り上げられていたウォーターフロント開発を集めて、108事例に絞り解説を加えたものである。“なんて贅沢”なという世界が海外では実現し始めていた時期である。当時の隅田川は、それが注ぎ込む東京港の水際線も、多くは物流施設や工場などで占められ、一般の人は訪れることもできず、雑誌に取り上げた贅沢な風景は憧れでしかなかった。

写真1

 

 ■ウォーターフロント開発の台頭と批判

1970年前後、ボストン港を皮切りにウォーターフロント開発は北米の大都市を中心として活発化していった。1980年のボルティモアのインナーハーバー地区(写真2)は疲弊した港湾が見事に都市の風景として蘇ったウォーターフロント開発の優等生である。
遅れること約10年、わが国でも折からのバブル景気に乗って、1986年小樽運河地区、1988年函館金森倉庫群地区、1989年釧路フィッシャーマンズと立て続けにウォーターフロント開発が実現した。極めつけは、1996年のデックス(大型商業施設)と人工海浜を中心とした東京・台場地区の開発(写真3)であろう。ついにほぼ20数年前に夢想していた、ボストン、ボルティモア型の本格的なウォーターフロント開発が東京に出現したのである。
その後、各地で次々とウォーターフロント開発は行われたが、どこも同じようなコンセプトやデザインで画一的という批判が高まった。内陸都心部に比して、広大で安価な土地でのウォーターフロント開発は、隈研吾氏のいう「売りやすいハコ、高く売れるハコの優先という貧しい基準で都市は場所性を失い荒廃した」(新ムラ論TOKYO、集英社新書)の片棒を担いだ。さらにいえば、ウォーターフロント開発には、ウォーターフロント開発自体よりも、ウォーターフロント開発を巡る言論や空間概念の豊かさがなかったのである。仕入値より高く売れて儲かった、だけではまちづくりのドラマは生まれてこないし、知的好奇心も湧かない。一方、ボルティモアやボストンはウォーターフロントから新たな都市構造や市民のライフスタイルまでも生み出したのである。

 

写真2

 

写真3

 

■東日本大地震とウォーターフロント

ウォーターフロントが本来有している場所性を新たに打ち出すべく検討を繰り返しているさなかに、東日本大震災が起こった。津波の脅威は映像を通しても十分伝わった。「これでウォーターフロントの開発も終わった」とする評価もある。しかし、誤解を恐れずいえば、地震や津波の前も後もウォーターフロントが醸し出す空間の質は変わらない。自然はいかなる意思も持たず、美醜や安全・危険の評価は人間の意思である。
穏やかな自然(天然)の空間は美しいが、その美しさの根源は自然だからであり、人工美では決して敵わないところがある。しかし、自然だからこそ、凶暴な野生の面も必ず有している。美しい自然が夥しい数の犠牲を生み出す。これを忘れてはならならず、付き合い方を常に意識すべきである。たとえば、復興計画のひとつに水辺を離れて高台に移住するという提案がある。美しいものから遠のけば、脅威は半減するが、美しさの享受も半減する。自然との付き合い方は永遠のテーマなのかもしれない。
最後に、あの膨大な被災状況から、これまで折に触れて述べてきたウォーターフロントのあり方のひとつについて触れたい。水際線近傍の陸域と水域が織りなすウォーターフロントは、海岸線までの陸域はいずれかの自治体に含まれるが、海側になると原則として行政界はない。つまり自治体固有の海はないのである。陸域、護岸、砂浜、磯、防波堤、海域といった一連の空間が、縦割りでなく同一自治体(おもに市町村)の管理下に置かれていれば、海岸の利用や保全、景観のあり方などはより地元の意思が働き、ウォーターフロントの楽しさや恐ろしさに精通した空間づくりになっていたかもしれない。復興の第一歩はこの検討から始められればと思う。

 

風景エッセイ