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2011.08.01

04|「一人親方の石工」第1回:丸谷 清氏の話

前田 格((株)東京建設コンサルタント|EA協会)

これまで、全国において城石垣などの文化財的価値の高い石垣の修復を手掛ける石工職人、小林さんの話を紹介してきました。小林さんのように石工衆を組織化して高度な技術力を要する仕事を行う方は極めて稀な存在であり、通常の石積み工事では元請けや下請けの建設会社・造園会社より、一人親方(組織に属さない職人)の石工に石積みを頼むことが多く行われています。一人親方と言っても、その仕事の範囲は一般住宅の外構から文化財の復元まで多岐に渡っています。
今回からは、一人親方の職人が語る自身の作品や石積み職人としての生き方などについてご紹介します。第1回目は、瀬戸内の御影石の産地であり、海岸構造物などに見事な石積みが多く残る倉橋島の石工職人・丸谷さんのお話です。

1.丸谷清氏について

自分は昭和8年生まれです。尾道の出身で、尾道の中学卒業後15歳で地元の腕の良い石積み専門の職人の親方、佐藤幸雄氏に弟子入りしました。修行中は石積みだけであり、墓石等はやっていませんでした。佐藤さんの作品は尾道に多く、特に千光寺界隈に多いです。
当時、弟子は13人居りました。自分の同級生で、幸男さんの長男、佐藤ゆずるさんも弟子入りしていました。ゆずるさんはその後尾道で建設会社をやっています。
親方の下で7年間修行し、22歳の時に妻と倉橋へ来ました。以来59年間、石積み職人として働いてきました。尾道時代は屋敷や寺などの石垣が多かったです。波止を積むようになったのは、倉橋へ来てからのことでした。昔は石垣専門でしたが、今は造園的な仕事もたまにやっています。お寺の墓地等の仕事です。県内隈無くどこにでも行きました。門司、小倉などにも個人宅の仕事で行ったことがあります。
自分は花崗岩専門です。二人の息子も一緒に仕事をしていますが、自分のように石を積むことはできません。中国材なら積めますが、一般土木の作業が中心です。
自分は、谷積み、布積み、乱れ積み、空積み、練積み、何でも積みます。段々畑の石積みは空積みなので台風時などに崩れやすかったことから、自分も手伝ったことがあります。
城石垣を積んだことはありません。

 

図1丸谷氏。(桂浜ドックにて)

 

2.倉橋島の石工について

自分が倉橋島に来た当時は島内に3~4人の石積み専門の石工が居りました。島内の坪井さん(現在40歳台)は自分の弟子であり、今は独り立ちして職人となっています。しかし、坪井さんの場合は石積み専業ではなく、一般土木工事もやっています。今の時代は、石積みだけではやっていけません。現在、倉橋島の石積み職人は、坪井さんと自分しかいなくなりました。

3.石積み工事の変遷について

倉橋島に来た時(約50年前)は石工の仕事は引く手あまたでした。電話がひっきりなしにかかってきて、1年後の仕事まで入れていた程でした。7~8年前まではほぼ毎日仕事があり、石積みだけでやってくることができました。呼ばれればどこへでも行き、特に決まったお得意さんがあるといたことはありませんでした。
最近は、近くで墓所を降ろす仕事が多くなりました。段々畑などの高地にある墓所を、耕作をやめて畑も荒れて維持や参拝が大変だからと下へ降ろす仕事です。個人からの注文です。墓所の仕事と石垣の仕事の比率は、6:4程度で墓所が多くなりました。墓所の仕事の場合、昔は石工事だけでしたが最近はコンクリートも含めて請け負っています。二人の息子がコンクリの作業をやっています。墓所の仕事は江田島に多いです。昔と異なり、今は細かい仕事(規模の小さな仕事)が多くなりました。間知ブロックも積んだことがありますが、石工の方が土木作業員よりも仕事が速いです。
尾道時代はまだ練積みが無く、空積みでした。しかし、赤土に石灰を混ぜて固めるような物はありました。空積み時代は栗を多く使っていましたが、今はこれがコンクリートになっています。波止の補修もやりました。波止は空積みだったのでよく崩れました。今はコンクリートでやってしまっています。波止の石積みにしても、陸上と理屈は同じです。20年くらい前からは空積みはまったくなくなり、練積みだけになっています。
一つの現場に、石工は自分一人という場合が多かったです。積み石のサイズは、昔はいっぱいありました。インマル、イン2、イン3、イン5、イン8(パチ)と、控えが長い物は面も大きいものでした。今はイン2に特化してしまっています。昔、空積みであったころは、イン3を良く使っていました。(注:インマル、イン2・・・とは、積み石のサイズを表す数字のようで、数字が大きくなるほど控の他、面も大きくなる。この地方の石工の符丁だと思われる。前回まで連載していた小林氏の話によると、石工の符丁には地域差があり、昔は流れの石工が多かったことから交流も盛んで石工間で符丁が通じることが多かったようだが、最近はそのような符丁が通じなくなっているとのことであった。)

4.賃金について

仕事は建設会社からが多く、請負の場合と常用の場合があります。石工仲間から呼ばれることもあります。門司や小倉の仕事の場合、尾立に居た石工職人が門司に行き、そこから呼ばれて積みに行ったこともありました。昔は請負が多く、朝早くからがんばって働きました。積めば積むほど儲かりました。常用だと張り合いが出ないことから、定時で上がってしまうような石工もいました。常用単価は、以前は3万/日程度、今は2万/日程度だと思います。請負の場合、現場に2t車が入るか入らないかで、単価が大きく異なります。以前は4万円/日程度稼ぐことができた頃もあり、今の倍近かったです。墓所の工事などの場合、3.5万円/m2程度で、材工含めて全部やっています。

5.石積みの技術について

自分は7年間親方の下で修行して独立しましたが、石積みの技術は7年間で完全に習得できるような物ではありません。しかし、5~6年もやればなんとかやれる腕にはなれると思います。
空積みは手間が掛かります。隅などを除いて、道路擁壁のような平坦なもので5~6m2/日程度しか進まないでしょう。練積みならば多少誤魔化せることから、7~8m2/日程度進めることができます。石を叩いて積む技術の習得は、叩かないで積む技術(中国材や造園の転石などの石積み)の倍の時間が掛かります。天端や先端部の肩部を丸めるところが難しいです。角を出すのはもっと難しいです。

6.自身の自信作について

自信作などありません。いつも反省しています。自分もまだまだ一人前ではありません。死んで墓に入り、自分の上に石が載るまでが修行です。
しかし、敢えて言うならば、一番最近やった桂浜ドックはそれなりに積めているかと思います。尾道時代に間組の元請けで、砂防の堰堤を積んだことがあります。これは高さが30m程度ある、壮大な物でした。

 

図2 ヒアリング中の丸谷氏(レストラン“マール”にて)

 

7.自分が積んだ石積みについて

【桂浜ドック】
享和年間(1801~03)に築造された日本最古の様式ドック跡として知られています。平成17年度工事で積みました。野面の部分は空積み、雑割は練積みです。野面の部分は、元々下から3段目くらいまでしかなく崩落していました。それを積み直しました。野面の補石は、前面にあった野面の練積みの部分の石を持ってきて積みました。野面はあまり叩かないで、合う石を選んで積みますが、天端などはやや叩かなければ積めません。空積みの部分は、石の控えが30~50cm、裏込め石が80cm程度の厚さで入っています。その背後に防砂シートが入れてあります。空積みは自分一人で積みました。道路側の雑割練り積みは坪井さんが積みました。スロープの部分(すべり)は天端を合わせるのが難しく、大変でした。角落としは一本石でできています。

 

写真3 ヒアリング中の丸谷氏(レストラン“マール”にて)

 

写真4 天端を揃えるのが難しかったという、スロープの復元部分。(桂浜ドックにて)

 

写真5 丸谷氏は島内の波止場の護岸や斜路、防波堤などを沢山積んでいる。写真は丸谷氏が積んだ倉橋漁港の護岸と斜路。

 

倉橋漁港の防波堤は、自分の代よりも古い石積みです。漁港の護岸は、以前は自分が積んだ石垣でしたが、今は消波ブロックで埋め尽くされています。

 

写真6 倉橋漁港の防波堤。コンクリートで補修されているものの、元は石積み堤であったことがわかる。現存する島内の他の波止においては上部工の港内側は雑割石であることに対し、ここでは上部工の港内側も空積みの乱れ積みで積まれている。丸谷氏よりも前の世代の作と言う。

 

写真7 現在消波ブロックが入れられている倉橋漁港の護岸部分も、以前は丸谷氏が積んだ石積みであったとのこと。(倉橋漁港にて)

 

【須川地区】
ここの波止も自分が積みました。外側(港外側)は野面の空積み、中(港内側)は雑割の練積みです。
外側は船で石を吊って積みます。その際にも石工が指示を出します。裏込めについても石工の指示で仕事を進めます。
波止の先端部が丸くなっている箇所は、勾配により石の大きさを合わせなければならないため、他の箇所よりも手間が掛かります。しかし、先端部で角を出す作業は困難であり、それに比べれば平面形状を丸くするのは楽です。

 

写真8 防波堤の外側の野面石の空積み部分(須川地区)

 

写真9 防波堤の外側の野面石の空積み部分(須川地区)

 

 

写真10・11 防波堤の先端部の曲線処理部分。角を出すよりも積むのは楽とのことである。(須川地区)

 

須川の潮待ちの港の方の波止は、先端部がすぐに下がって(沈下)してしまうため、何度も直しに行きました。数年前にも一部を直しました。

 

写真12 先端部が下がり、何度も直したという波止。現在は港外側(野面石空積み)の大部分と天端(雑割石)及び先端部がコンクリートで固められている。港内側には往時の様相がまだ見られる。

 

【尾曽郷の護岸、斜路】

 

写真13 これも丸谷氏の作。

【江の浦(相の山)の波止】
今から45~50年くらい前に、自分が積んだ物です。当時はまだ道路が無く、泊まり込んで積みました。現場では石工は自分だけでした。ここは元は波止場で、波止場の周囲も石垣でした。今は埋め立てられてしまっています。
このように、断面形状の肩部を丸めたものを、「すべり」と言い、通常の場所よりも手間が掛かります。手間がかかると言っても、角を出すよりは楽です。

 

写真14・15 丸谷氏が積んだ波止。この波止は港内・港外側共に雑割石の空積みである。現在崩落している箇所は2~3年前に崩れたものらしい。近所の方の話によると、昭和の初めごろにできた波止場のようである。(相の山地区)

【尾立地区護岸】

写真16 全部ではないが、これも一部が丸谷氏の作であるとのこと。(尾立地区)

 

 

【その他の港湾構造物事例】
下蒲刈島の三之瀬の以前の防波堤も自分が積みました。脇組や、脇さんの親戚の浜田組からの仕事であったと思います。規模が大きく大変でした。

次回も別の一人親方の石工職人の話をご紹介する予定です。

職人礼讃

前田 格Itaru Maeda

(株)東京建設コンサルタント|EA協会

資格:

一級建築士

 

略歴:

1967年 千葉県生まれ

1993年 多摩美術大学美術学部建築科卒業

1993年 (株)地域開発研究所 入社

2011年 (株)東京建設コンサルタント 入社

 

主な受賞歴:

2001年 土木学会デザイン賞 優秀賞(鹿児島港本港の歴史的防波堤)

2008年 土木学会デザイン賞 優秀賞(嘉瀬川・石井樋地区歴史的水辺整備事業)

 

組織:

(株)東京建設コンサルタント

〒170-0004 東京都豊島区北大塚1-15-6

TEL:03-5980-2648

FAX:03-5980-2613

HP:http://www.tokencon.co.jp/

 

業務内容:

・土木、造園、建築の計画及び設計業務

・都市計画、まちづくりに関わるコンサルタント業務

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