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2011.08.01

尾鷲の森で考えたエンジニア・アーキテクトの領域

吉谷 崇((株)設計領域|EA協会)

会社を設立してまだ4ヶ月ほどの2009年9月、ある会に同席した東京大学都市工学科の羽藤英二准教授から声をかけられた。
「三重県の尾鷲てところで、森の中で、道づくりの仕事があるんだけど、面白そうだからやらない?よく分からないけど、なんか熊野古道みたいな感じ。」
誘いは概ねこんな感じだったと思う。熊野古道か、それは面白そうだと仕事依頼の内容を詳しく聞くこともなく即答し、ほどなく羽藤先生らともに尾鷲へ向かった。東京から名古屋、名古屋から紀勢本線に揺られ、合計6時間。終電で到着した我々を尾鷲駅で待っていたのは、地元で建設業を営む中村レイさんだった。尾鷲駅から車でさらに南へ約4km、賀田湾に面した三木里町に向かう道中で、我々はレイさんからようやくプロジェクトの全貌を聞かされる。
「尾鷲で、林業と建設業一体となって、新しい林業作業道の規格を考えたい。豪雨地域の尾鷲では、既存の規格で作業道を作っても、ひと夏で崩れ去ってしまう。尾鷲独自の仕様を作る必要が有るので、一緒に考えてほしい。」
全然、熊野古道とは関係ない。それどころか、土木ですらなく、全く勝手の分からぬ林業である。聞けば、羽藤先生が交通の先生だから、作業道とはいえ道のことなら分かるだろうという軽いノリで頼んだようだ。受ける方も受ける方だが、のこのこついてきた我々もどうかしている。
会社を作って4ヶ月、こうして我々は土木でも建築でも無い林業の仕事に足をつっこむこととなったのだった。
2009年5月1日、メーデーのデモが代々木公園を行進するなか、僕と新堀大祐は共同代表という形で株式会社設計領域を立ち上げた。僕は(有)小野寺康都市設計事務所から、新堀は(株)ワークヴィジョンズからそれぞれ独立した形となる。

会社名については、設立当初から良く由来を聞かれる。正直、我々もそこまで確信を持って名前を付けたわけでは無いのだが、どうも設計というプロフェッションの受け持つ範囲、領域をもっと拡げなければ、自分たちの先はないのではないかという閉塞感だけは当時から共有していた。設計というフェーズで、上流から仕事が降りてくるのを口を開けて待っていても、出来ることは限られているのではないか。もっと積極的に、設計という行為の対象を広げていくべきではないか。そんな漠然とした思いから会社名を付けた。
そんな立ち上げた矢先の、尾鷲の林業プロジェクトである。
何だか軽いノリで始まった尾鷲のプロジェクトであるが、背景にある話は軽いものではない。日本の林業が死に体である、という話くらいは僕も知っていた。いま、山には手つかずのままのスギやヒノキがろくな管理もされずにとり残されている。

適切な森林管理には間伐が不可欠であるが、その間伐を行うコストすら、木を売ることではまかなえなくなっている。だから森にはますます人の手が入らなくなり、管理の手が行き届かず荒れた森が広がっていく。また、小規模な山主(やまぬし=森林所有者)の多い日本では、合意形成の難しさから、効率的な大規模森林管理を行うことが難しいという現状が有る。結果、効率的な林業施業が行えず、間伐コストが一層高くなるという袋小路に陥っている。
加えて尾鷲の場合は、先述のレイさんの言葉にもあるように、間伐に用いるための作業道を作ってもひと雨で壊れてしまうという現状が有る。ならば壊れないように作れば良いのではないか、と思いたくなるが、そもそも経営的に成り立っていない林業業界では、作業道の開設はメートルあたりいくらという補助金でまかなわれている。しかしこの補助金も地域によらず数千円という安さで、結局この値段では長期間尾鷲の豪雨に耐えられるような規格の作業道は到底通せない。結果、尾鷲では間伐ごとにコストをかけて作業道を作り、間伐を行えばまた作業道が流されるということを繰り返さざるを得ない。道がないから下草の除去などの定期的な管理も難しく、人工林としての環境は悪くなる一方である。
尾鷲プロジェクトの眼目は、このような林業の硬直した状況を、建設業との共同によってなんとか好転させられないか、というものだ。これまで、いわば林業家による現場での勘でその都度設置されてきた作業道に、「設計」という考え方を持ち込み、鬱蒼とした暗い印象のある人工林をもっと人々や地域に開かれた存在にする。それが、我々が尾鷲プロジェクトで求められたことである。
林業施業という、元来単目的に特化された作業道を、地域に開かれた多様な活用が可能な高いスペックをもつ「道」として置き換えること。作業道とセットとなる、直径20メートル程度の施業用の作業土場(さぎょうどば=材木の集積と玉切りに用いる場所)についても、さまざまな活用が可能な「広場」とすること。さらに、小規模林の将来的な一元管理を見越して、延長接続が可能な作業道・作業土場レイアウトとすることなど。我々はすでに、尾鷲のお隣・海山の速水林業(日本で初めてFSC認証を受けた、日本有数の林業家のひとつ)の森で、一元管理された大規模人工林の美しさを目の当たりにしていた。適切に管理され、陽の光が十分に注ぐ人工林のある種神聖な美しさを、もっと広く人々に知ってもらいたい。学びや癒しの場としてもきわめて有効な場所だ。所有はあくまで山主であるが、平常時のその管理活用は地域の人々で考えていけないだろうか。そのような思いから、プロジェクト名を「三木里コーポラティブ・フォレスト計画」と名付けた。
整備の対象として選ばれたのは、尾鷲市三木里の町からほど近い、絞り丸太の細いスギ林。かつて棚田状の水田だったところに戦後植林したという場所だった。

 

図1 美しい速水のヒノキ林

 

図2 鬱蒼とした三木里の森

 

それから我々は何度も三木里の森に通い、川や沢などの地形、既存の林道との接続、隣接する森林との関係をつぶさに観察しながら、作業道や作業土場の配置を考えていった。かつての棚田の跡は陽の光の通り道となる印象的な一本道を作っていたので、それを活かして広場同士をつなげることにする。山の御神木が綺麗に見えるように、土場の位置や大きさを調整する。作業道を通す際に発生する間伐材を用いて、デッキやログハウスを作ってはどうか。土場の山止めに使っても良い。いやいや、子供たちの遊具に加工できないか?
地形を読み、模型を作って空間を検討し、地元の林業や建設業の関係者にプレゼンテーションする。この辺の考え方、やっていることは、土木建築分野の仕事となんら変わりはない。三木里の森は徐々に、楽しげになってきた。作業道のスペック(規格)についても、書類によるレビューや熊野古道の構造を参考にしつつ、最終的には現地をよく知る「作業道づくりの達人」の手を借りながら、雨に強い作業道の仕様とルートを決めていった。

 

図3 三木里コーポラティブ・フォレスト 検討模型

 

図4 三木里コーポラティブ・フォレスト 計画平面図

 

最後は中村レイさんの本職である建設技術が仕上げる。あっという間に間伐が進み、作業道が開削されていく。道なき森に道が通ることにより、森に光が差し込み、一転して生き生きした風景へと様変わりする。景色がまるで違って見える。作業土場の擁壁は、結局、間伐材ではなく現場で発生したレキを用いた。もともと三木里は採石場があるほどの良質な岩盤地域であることもあり、大きく立派な石が現場からごろごろと発生したのである。仕上がりは良い。ご神木を背後に戴いたこの場所で、今後はさまざまなイベントが催されていくであろう。

 

図5 作業道が通った森の風景

 

図6 作業土場

 

結局、我々が尾鷲のプロジェクトでやってきたことは何であったか。それは町と人工林という、要素として切り離されてしまった環境を再びつなぐべく、インターフェイスのデザインを与えたことである。元来設計という行為の存在しない世界に設計(デザイン)を持ち込み、効率的な森林管理への種を植え込む。一見変化のない森が、少しずつ変わっていくきっかけをあたえる。ささやかな第一歩ではあるが、デザインによって森と人との関係性を再定義すること。プロジェクトのきっかけはちょっとした早とちりからだったが、振り返れば、我々にとってはデザインの領域を拡げる重要な試みになったと考えている。

一般論として、土木(公共事業)の仕事は、計画→基本設計→実施設計→施工の順に、段階的に流れる。単年度主義に起因する、基本的には制度的に不可逆の流れのなかで、設計者の役割とは、ある程度決められた敷地を、補助金制度という期限付きの中でスピーディに形を決め、整備することにある。まちを人間の身体に例えるなら、悪いところをすばやく切除し、置き換え、機能を回復させるという西洋医学の手法に近い。その背景には、近代以降の要素還元主義の思想がある。これまで自分の関わってきたプロジェクトもこの形が多い。その中で、どれだけ地域に未来にむけたデザインを展開できるか、それこそがプロのデザイナーに求められる職能であることも確かであろう。しかし、そこで与えられているデザインの領域は限定されているという側面は否定できない。
一方で、町の内面そのもの、つまり住んでいる人そのものの活力や、顕在化していない眠った価値を呼び起こすといったまちづくりの方法がある。時間はかかるが自力をつけ、徐々に免疫力を高めるやりかたは、東洋医学的である。市民参加のまちづくりや、コミュニティのデザインなどはこっち側に属するといえよう。空間をつくることを不可欠とはしないやり方であるから、必ずしもいわゆる公共空間の整備という仕事の流れには乗らない。

我々は設計事務所なので、もののかたちや空間を作ることをプロフェッションとしている。あくまでも主戦場は設計のフェーズであり、立場としては前者ということになる。しかし、これまでどおりの制度にただ従い、与えられた敷地のみを操作するだけでは、これからの都市・地方部でますます求められていくであろうまちの機能転換や、人々の生活類型の変化に対応した空間づくり、あるいは尾鷲のような、まちと周辺環境との関係を再定義したり、人々の暮らし方そのものを変えて行くような場所づくりを行ったりすることは難しいのではないだろうか。会社を設立した当初の漠然とした思いは、尾鷲のプロジェクトなどの経験を通して大きく育っている。

計画論と設計(デザイン)を、もっと手法レベルで近づける必要があるのではないか。つまり東洋医学的な、まちづくりや空間づくりのツボ探しのようなアプローチを、設計と同じフェーズに組み込んでいくということ。上位段階で、多くはB/Cの議論などによって決められた点や線における空間改変のみに設計の役割を限定するのではなく、その点や線を探し出すプロセスや、それらの関係性やダイナミズムも操作対象としながら設計(デザイン)に落とし込んでいくこと。その努力なしに、デザインという行為がこれからの日本が向き合う数々の課題に応えていくことは難しいと思える。東洋医学を取り込んだ西洋医学とでもいえばいいだろうか。計画分野においても新たな手法がいくつも生まれつつあるが、そういった手法をキャッチアップしながら設計手法と融合していくことが求められていると思う。

尾鷲で林業を相手にしたように、我々が向き合うべき課題は、より複雑で広範囲に及んでいる。分野間のコラボレーションをさらに発展させ、分野、事業のフェーズすらも越えて、もっとそれぞれのプロセスをダイナミックに融合していかなければならない。そのためには我々も、設計というプロフェッションを確立する一方で、広い目的意識のもとにその職能の領域を拡げていきたいと考えている。そのような姿勢は、エンジニア・アーキテクトという新しい職能に最も求められていることでもあるだろう。また、現行制度の壁を越えたよりダイナミックなコラボレーションの仕組みや、領域を広げた設計業務を可能とするようなしくみづくりに向けて、エンジニア・アーキテクト協会の活動としても働きかけて行く必要があると考えている。

さて尾鷲のプロジェクトではその後、作業道開設にあたって発生した丸太を使ったログハウスづくりのプログラムが進められている。すでに職をリタイアした地域のおじさんたちが週末になると集まり、我々の設計した六角形の(作るのが面倒な)ログハウスづくりに、四苦八苦しながらも楽しみながら取り組んでくれている。ログハウスは完成後、イベント時の拠点として使われる予定である。こういった参加の仕掛けも、人と人、人と地域をつなぐインターフェイスづくりに他ならず、このような仕掛け作りもデザインの役割といえるだろう。願わくは、この機会に生まれた人と人とのネットワークが、森を活き活きとさせていく原動力となって欲しいと思う。

 

図7 間伐材を使ったログハウスづくり

 

次世代を担うエンジニア・アーキテクト

吉谷 崇Takashi Yoshitani

(株)設計領域|EA協会

資格:

技術士(建設部門)

 

略歴:

1978年 兵庫県西宮市生まれ

2000年 東京大学工学部土木工学科卒業

2002年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻修士課程 修了

2002年 (有)小野寺康都市設計事務所 勤務

2009年 (株)設計領域 設立

 

組織:

(株)設計領域

代表取締役 新堀 大祐

代表取締役 吉谷 崇

〒107-0062 東京都港区南青山3丁目4-7 第7SYビル6階

TEL:03-5413-3740

FAX:03-5413-3741

HP:http://s-sr.jp/

 

業務内容:

・土木、建築、造園に関わる設計及び監理

・地域、都市計画に関する調査、研究及び計画立案

・都市デザイン、景観設計に関する調査、研究及び計画立案

・インテリア、家具の企画、設計及び販売

・公園遊具、路上施設等の企画、設計及び販売

・広告、宣伝に関わる企画、編集及び制作

・イベント等の企画及び運営

・前各号に付帯する一切の事業

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