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2012.04.10
これから本格化する復興デザインに向けて
その2:防災の自治意識について
篠原 修(GSデザイン会議|EA協会 会長)
(その1)の提言では、「復興に使用する材料」について私見を述べた。(その2)では観点を変えて、復興の要となる防災装置について今考えていることを述べてみたい。なを、避難のシステムなどに関するソフトはまた別の機会にと考え、ここではハードを議論の中心とする。
1.近世における防災事業の主体と装置
災害大国と言われる我が国では、どのような主体が、いかなる装置をもって自然災害に対処して来たのであろうか。ここでは河川の洪水を例にとって、その構図を概観してみよう。
近世までの我が国では、防災事業の主体は個(家)、集落、藩(当時の国)の3段階であったとしてよいだろう。それぞれの洪水対策装置を以下におさらいしておく。
個のレベルでは家屋敷を守ることが課題となる。微高地を求めて家屋敷を構え、それでも不足な場合には盛土をし、さらに一段高い場所に蔵を立てて財産はそこに収納していた。この蔵を、地方によって呼び名は様々だが、水屋と称していた。また屋敷周りに屋敷林を巡らし、洪水流の勢いを削いで家へのダメージを減殺する工夫が凝らされている所もあった。そして陸の孤島となってしまう場合も想定して、舟を持っている家すらもあったのである。
個のレベルを超えた集落単位での洪水対策も普遍的に行われていた。集落を守る堤防がそれで、しかしその堤防は現代の我々がイメージするものとは違い、守りたい所のみを防御するもであった。つまり堤防は集落を囲む形で整備されていた。ここから、今の日本人には逆ではないかと思う、堤内、堤外と言う言葉が生まれたのである。堤防の集落側が堤の内側、川側が堤の外なのである。機械力のなかった時代、そして労働力を大量に動員する権力を持たない集落のレベルでは、大規模な堤防は作れなかったから、洪水が溢れる事を前提にした対策も工夫されていた。それが水防林である。堤防の前面と背後には、竹や郷土種の樹木(関東ではケヤキが、九州ではクスを用いることが多い)が植えられ、洪水が堤防を越流しても土石流はここで食い止め、田や畑が破壊される事を防ごうとしたのである。この堤防と水防林がうまく機能すれば田や畑には水と泥だけが入り、田畑はむしろ肥沃となったのである。
大名が権力を集中して領国経営に乗り出す戦国から江戸期になると、工事はより大規模となる。集落を超えてより広い地域を守るべく大規模な堤防が築造され、計画的に水を溢れるさせる区間には越流堤が、そしてその受け皿としての遊水池が設けられた。これらの堤防の多くは上流側に向かって開く、霞堤であった。田畑は水に短時間なら浸かってもよい、すぐに引くのだからと言う考えで、勾配のある土地には適した工法であった。
以上の防災装置は鈴木哲によって、防災の大技術、中技術、小技術と命名された(大熊孝の紹介による)。江戸期には以上のような大、中、小の3段構えの洪水対策装置が存在していたのである。
2.近代、現代の防災事業
明治以降、国家が近代化されるにつれ防災事業の主体は集落から市町村、さらには藩に代わる県へ、国へと、より財政力をもつ上位の組織に移行していく。この移行にはそれなりの必然性があった。三段構えの防災対策であったとはいえ、それは現在の基準からすれば「水防」のレベルに留まり、河川の水系を視野にいれた「治水」のレベルには達していなかったからである。近世の水防では洪水の氾濫を防ぎきる事は出来なかったのである。集落は、そして市町村は国や県が治水事業を行ってくれることを望んだのである。そして、それは自らの懐が痛まないと言う点でも好都合だった。治水の柱は連続堤の整備となり、弱い区間を作って洪水を越流させると言う考えは、何時の間にか片隅に追いやられていた。このような国と県の大規模事業は沿川住民の間に安心感もたらし、次第に個と集落レベルでの防災対策は軽視されるようになっていく。その結果、現代では洪水に対する対策は「大」のみの技術しかなく、「小と中」の技術は忘れさられようとしている。連続堤に守られてはいるものの、かっての氾濫原にある住宅地は一度破堤すれば甚大な被害を被らざるをえない。一段構えのみの防災対策故の悲劇である。今回の震災でキーワードとなった、「減災の思想」が欠如しているのである。この、防災は国や県にお任せと言う考えは、堤防などの防災施設が自分達の為のものであると言う意識を希薄化させ、それを愛着をもって日常的に面倒見ると言う行為を忘れさせてしまった。それは県や国のものなのだから、我々には関係ない存在であるという事にもなってしまったのである。
自分達のことは自分達で考え、工夫し、守ると言う防災に対する自主精神が希薄化してしまった。強力に推し進められて来た国の防災事業が皮肉にも、地域の自主性を奪ってしまったのである。自然災害に対する防災の自治は市町村の自治行政の範囲外となってしまった、大袈裟に言えば。
3.健全な防災装置の復興に向けて
陸前高田の、大槌の、そして宮古の田老の津波による被災は国や県の大規模な装置のみに頼りきったことに起因する。個と集落レベルの装置の重要性を忘れていたのだ。冷たい言い方で申し訳ないとは思うが、事実はそうとしか言いようはない。この現代的な防災に対する考え方と事業のシステムは、遺憾なことに何ら変更されることなく今回の被災地に再び適用されようとしている。即ち、防災施設は、具体的には防潮堤と水門に代表されるが、それは県が整備しますと言う方針で。地域の住民からすれば、自分達の懐は痛まないわけだから、それがどんなに金がかかろうとも、やってもらわないと損をした気になるからやってくださいと言うことになる。それは自分達のものではなく県のものなのである。これでは装置が以前よりも大規模になっただけで、防災に対する住民の意識も、国のシステムも何ら変わらないと言うことである。
今回の大津波による被災が教える最も大切な点は、自分達の事は自分達で守る、それが防災の原点だと言うことにある。それを補うものとして、集落の、市町村の、そして県、国の施策があると考えるべきであろう。いざ被災した後に県や国に文句を言っても、失われた人、ものは戻ってはこないのだ。
今後の、被災地の防災装置作りに当たって希望したいことは、次の2点である。第一はここまで再三述べて来た個、集落、県・国の3段構えの防災対策で再び来るであろう津波に備えて欲しい、これについてはこれ以上の説明は不要であろう。第二は、自分達で責任を持つ事の出来る、身の丈にあった防災装置のレベルで考えて欲しいと言うことである。県が幾ら地元の負担なしで防潮堤を、あるいは水門を作ってくれるからと言っても、その維持管理は永久に県がやってくれる保証はあるのだろうか。また、聞く所によると大槌川に予定されている水門は一機で数百億もかかると言う。100年、200年単位のスパンで考えなければならない津波相手では、鉄で出来ているこの高価な水門は何回作り変えねばならないのだろうか。県は本当に面倒を見つづけてくれるだろうか。それ以前の問題は適正にメンテナンスが出来なければ、いざという時に水門も防潮堤も機能しないであろうと言う点である。また、浸水の恐れのある低地が公有地として買い上げられ、公園となったとしてもそれは誰が維持管理するのであろうか。広大なその敷地は地元で管理出来るのだろうか。管理のいき届かない公園はだれも利用出来ない荒地の危険な所となる他はない。自分達の集落は自分達でと考えるなら、それが正に健全な自治精神と言うものであろうが、自分達の安全も自分達で考えると言うのが筋であろう。
「禍を転じて福となす」、今回の被災を機に東北が元気を取り戻し、その自立、自主の精神を全国に発信する事により日本の未来を切り拓いて行く、それを望んで止まないことを最後に言って締めくくりとしたい。
参考文献
大熊孝;技術にも自治がある、 農文協
復興元年を迎えて
- これから本格化する復興デザインに向けて
その3:まち作りのヴィジョン - 篠原 修(GSデザイン会議|EA協会 会長)
- これから本格化する復興デザインに向けて
- これから本格化する復興デザインに向けて
その2:防災の自治意識について - 篠原 修(GSデザイン会議|EA協会 会長)
- これから本格化する復興デザインに向けて
- これから本格化する復興デザインに向けて
その1:復興に使用する材料 - 篠原 修(GSデザイン会議|EA協会 会長)
- これから本格化する復興デザインに向けて
篠原 修Osamu Shinohara
GSデザイン会議|EA協会 会長
資格:
工学博士
略歴:
1968年 東京大学工学部土木工学科卒業
1971年 東京大学工学系研究科修士課程修了
1971年 (株)アーバン・インダストリー勤務
1975年 東京大学農学部林学科助手
1980年 建設省土木研究所研究員
1986年 東京大学農学部林学科助教授
1989年 東京大学工学部土木工学科助教授
1991年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻教授
2006年 政策研究大学院大学教授、東京大学名誉教授
主な受賞歴:
1986年 国立公園協会 田村賞
1990年 土木学会田中賞(森の橋・広場の橋)
1996年 土木学会田中賞(東京湾横断道路橋梁)
2000年 土木学会デザイン賞優秀賞、土木学会田中賞(阿嘉橋)
2000年 土木学会出版文化賞「土木造形家 百年の仕事-近代土木遺産を訪ねて」
2001年 土木学会デザイン賞 最優秀賞、土木学会田中賞(新港サークルウォーク)
2002年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(阿嘉橋、JR中央線東京駅付近高
2004年 土木学会田中賞(朧大橋)
2004年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(陣ヶ下高架橋)
2004年 グッドデザイン賞 金賞(長崎・水辺の森公園)
2005年 土木学会田中賞(謙信公大橋)
2006年 土木学会出版文化賞「土木デザイン論-新たな風景の創出をめざして-」
2007年 土木学会田中賞(新西海橋)
2008年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(苫田ダム空間のトータルデザイン)
2008年 土木学会田中賞(新豊橋)
2008年 ブルネル賞(JR九州 日向市駅)
2008年 日本鉄道賞ランドマークデザイン賞(JR四国 高知駅)
2009年 鉄道建築協会賞停車場建築賞(JR四国 高知駅)
2010年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(新豊橋)
主な著書:
1982年「土木景観計画」、技報堂出版
1985年「街路の景観設計」(編、共著)、技報堂出版
1987年「水環境の保全と再生」(共著)、山海堂
1985年「街路の景観設計」(編、共著)、技報堂出版
1991年「港の景観設計」(編、共著)、技報堂出版
1994年「橋の景観デザインを考える」(編)、技報堂出版
1994年「日本土木史」(共著)、技報堂出版
1999年「土木造形家百年の仕事」、新潮社
2003年「都市の未来」(編、共著)、日本経済新聞社
2003年「土木デザイン論」、東京大学出版会
2005年「都市の水辺をデザインする」(編、共著)
2006年「篠原修が語る日本の都市 その近代と伝統」
2007年「ものをつくり、まちをつくる」(編、共著)
2008年「ピカソを超える者はー景観工学の誕生と鈴木忠義」、技報堂出版
組織:
GSデザイン会議
東京都文京区本郷6-16-3 幸伸ビル2F
TEL:03-5805-5578
FAX:03-5805-5579
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