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2011.06.01

コミュニティデザインの専門性

2つの問題意識がある。ひとつはデザインが単なるデコレーションとして捉えられている節があること。もうひとつは専門性が住民の主体性に蓋をしている節があること。どちらも「そういう節がある」程度のことなので確信には至っていない。今回はこの2つについて書こうと思う。

僕はデザインを「社会的な課題を解決するために振りかざす美的な力」だと捉えている。社会的な課題の本質をつかみ、それを多くの人が共感するような美しい方法で解決するのがデザインという行為だと考えている。ところが昨今のデザインは装飾的な側面が強く、これまでに見たことのないような形や色の組み合わせを競うことが多い。それがグニャグニャした形であろうと真っ白な空間であろうと、プラスのデザインであろうとマイナスのデザインであろうと、そのデザインが必要となった社会的な課題に向き合っていないものはデザインとは呼べない。

その意味では、浮ついたデザインをもう一度見直す立場として、工学的な技術からデザインを標榜するエンジニア・アーキテクトという考え方には共感するところがある。課題解決のための諸技術を美しい形へと統合化するプロフェッショナル。とても頼もしい響きだ。

このあたりでもうひとつの問題意識が浮かび上がる。プロフェッショナルはどこまで有効か、という問題だ。専門家はこれまで、自身の専門性の威信にかけて課題に対する最良の策を講じてきた。車も飛行機も建築も都市もそうやってつくられてきた。たとえば都市は、都市計画や土木や建築や造園の専門家が、それぞれの専門性に基づいて最適解を示し、それに基づいてつくられてきた。道路も橋梁も、上下水道も電気も、何もかも専門家がちゃんと考えてつくってくれている。素人が口を出すようなことじゃない。あとは行政と専門家に任せておけばいいはずだ。長い間、そんなふうにして都市がつくられてきた。
それは一定の成果を挙げた。しかし一方で、自宅前の道路に落ち葉が多いと役所に「掃除しに来い」と電話する住民が現れるようにもなった。かつてのように「道普請」などと言いながら道路を自分たちでつくる人たちはほとんどいなくなった。まちに何らかの課題が発生すれば行政に連絡する。連絡を受けた行政は専門家を派遣して対処する。住民は自分たちで力を合わせて課題を解決しようと思う必要がなくなった。

それじゃダメなんじゃないか、と僕は考えている。住民が力を合わせて課題を解決しようと思う必要がなくなっているのであれば、そのきっかけを生み出さなければならない。力を合わせる必要がないから挨拶や会話が減り、隣人の顔を知らない人が増え、テレビを観ながらもたれかかっている僅か20cmの壁厚の向こうで孤独死が起きていることに気づかないマンションが建ち並ぶようになった。

行政や専門家が「いたれりつくせり」にすればするほど、住民は力を合わせて課題を乗り越える必要がなくなる。このとき、専門性をどのあたりまで発揮すべきなのかという問題が立ち上がる。基礎自治体の財源が減少し続けるこれからの時代には、専門家がどこまでを担い、力を合わせた住民たち(コミュニティ)がどこまでを担うべきなのかを戦略的に考えておく必要がある。そのとき、住民が力を合わせるために多くの人が共感するような美しさを伴ったきっかけが求められる。ここにデザインが必要となる。

コミュニティデザインは、住民が力を合わせるための美しいきっかけづくりから始まる。そして、コミュニティのやる気をマネジメントしながら、課題を乗り越えていくプロセスをデザインする。そのコミュニティが自らの力で課題を乗り越えることができるようになる頃、コミュニティデザイナーはその場からいなくなっているのが望ましい。
コミュニティデザイナーが「いたれりつくせり」ではマズい。コミュニティデザインの専門性はどのあたりにあるのか。注意深く検討する必要がある。

 

01 :住民参加による海士町での総合計画策定。寝る間も惜しんだ合宿での議論(海士町:海士町総合振興計画)

 

02 :住民の声から生まれたカフェレストランに対する社会実験。当日は行列ができた。(海士町)

 

03:ボランティアが主体となって公園づくりを進める。(大阪府:泉佐野丘陵緑地)

 

04 :利用者自らが自分たちの使う場所をワークショップでルールを決める。(鹿児島:マルヤガーデンズ)