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2011.11.03

復興という戦い

中井 祐(東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻|EA協会)

「復興に向けて大切なこと」といういただいたテーマにたいして、岩手県大槌町の復興計画に関わっている立場から、現在進行形で考えていること、思うことをそのまま書く形で応えたい。まとまりに欠ける点はご容赦いただければ幸いである。

復興計画はいくさのようなもの

たとえはよくないかもしれないが、計画というのは、最終的な勝敗の帰趨を常に頭に置きながら、それぞれの局面を戦い続けるいくさのようなものだろう、と思う。デザインはいわば個々の局地戦であって、勝つときもあれば負けるときもあるし、それが大局を左右するかどうかは結果次第、というようなところがある。一方計画においては、たとえばつまらぬ戦いにいくら勝ち続けても、重要な局面で負ければ意味がない。刻々と変わる状況をにらみながら戦略的に対応しなければならないし、個々の勝敗に一喜一憂して大局を見誤ると勝利はおぼつかない。いやそもそも、最終的に勝敗がはっきりするとは限らない。
いま大槌町は、国の調査に基づく復興パターン案を素材にして、地区ごとに住民が主体的に議論する場を設けて議論のコーディネートを専門家(学識者)に預ける、という形で一気に計画の基本内容をまとめにかかっている。いわば全軍あげての大会戦のさなかである。最終的な勝敗を左右する、最初の重要な局面だろう。この戦いには、本会から筆者含め7名の会員がなんらかの形で加わっている。他の被災した市町村に比べて、戦力は充実しているほうなのではないか、と勝手に想像しているが、それでも戦局は一進一退といったところか。
それにしても、と考える。われわれが戦っている相手とは、そして戦う目的とは、いったいなんなのだろうか。

防潮堤について

9月と10月に、岩手県は三陸沿岸計24湾の計画防潮堤高を公表した。大槌町の場合は、14.5m(T.P.、被災前は6.4m)である。平地部が限られている大槌において、これは異様なスケールである。モンタージュで確認すると、目の前の海どころか、湾をとりかこむ山々すら、おおかた見えなくなってしまうほどの威圧感である。
また、湾に注ぐ二本の川の河口部にそれぞれ巨大な水門を必要とするため、全体の完成には相応の期間と費用を要する。完成しても、長期にわたる維持管理や将来の改築コスト、またそれに対する県や地元の負担は相当のものになろう。あるいは、これだけの防潮堤を建設したうえで、さらに浸水域の土地の買い上げや補償、高台の宅地造成、大規模な盛土、それらに付随するインフラ投資を行うのは過剰投資ではないか、という見方がでてきてもおかしくはない。
県は、14.5mという数値は計画高さの限度を示したものであり、地元の議論に応じて低くする可能性はありうる、という見解を示している。要するにこれだけ巨大な防潮堤を、本音では、県も積極的につくりたいわけではないのだろう。しかし、たとえ地元でいくら議論しても、綿密な専門的検討を経た数値を変更するほどの強い根拠を示すことは、ほとんど不可能である。また、想像を絶した津波を目の当たりにして海にたいする恐怖や不安に支配されている住民のなかに、せっかく高く丈夫に造ってくれると県が言い、その金は国が出すと言ってくれている防潮堤を、積極的に低くしようとする動機が生まれようはずがない。
防潮堤のような防災構造物には、たとえば100年に一度という規模の自然力に対応することが求められる。つまり、防潮堤の規模や形を支配するのは、100年の時間スケールで一回程度起こりうる非日常事の論理である。一方、都市計画やまちづくりは、残りの99年と364日をいかに豊かに生きるか、という日常の論理に軸足を据えなければならない(その日常のなかに、いかにして100年に一度に対する備えを織り込んでゆくかが、勝負どころである)。
結局、防潮堤というひとつのパーツだけを切り出して独立的に検討する、という方法の限界なのである。非日常のなかに閉じた論理が高度に完結すればするほど、日常の論理と相容れない対立点がむき出しとなる。たとえば、一生に一度来るかどうかという津波から生命財産を護る確実性とひきかえに、海を堤防で閉ざされた狭隘地に暮らし、漁港に出るために毎回三階建ての建物以上の高さを乗り越える日常生活上の非合理性を受け入れるしかないという、他の選択の余地を閉ざされた極端な状況に陥ってしまう。
筆者は、大槌復興の手段の主となるべきは第一に土地利用計画である、と考えている。とくに、かなりの速度で少子高齢化・人口減少が見込まれる大槌では、防災のみならず日常の活気という観点からも、市街地を集約、もしくは凝縮する方向への土地利用の誘導が最優先課題である。もし将来、不必要に広い範囲に単身高齢者世帯がまばらに散らばって住むような町になってしまえば、日常の活気やコミュニティの維持の観点から問題が大きいことはもちろん、防災上も危険きわまりない。したがって、日頃からコミュニティの意識や活動を養いやすく、万が一ふたたび巨大津波が襲来した場合でもその被害の範囲と程度を最小限に抑えることが可能な市街地や集落の形態をつくりあげていくことを、目標の第一に見定めねばならない。具体的には、浸水をまぬがれた山裾の既存集落に接続するように、もしくはそのなかにまぎれこませるように、浸水域の住居・コミュニティの浸水域外移転を進めると同時に、浸水域に残る(もしくは残らざるをえない)市街地を、相対的に避難の容易な土地に、可能な限りコンパクトに圧縮していく、というイメージである。
そして、このイメージを具体化した空間計画案に対して、市街地を効果的かつ効率的に津波から防御し、かつ巨大津波襲来時の避難の成功確率をより高めるためには海岸防護施設がいかにあるべきか、という検討が本来必要なのである。たとえば、県による防潮堤の計画は、あくまで現況の堤防法線を前提とした津波シミュレーションの結果を、重要な判断材料としている。しかし市街地の再編を想定するならば、堤防の計画法線はそれに応じたより合理的な形が描かれるべきであり(大槌の現況法線は出隅や入隅だらけである)、したがってその計画法線を境界条件とする別のシミュレーションも必要となろう。
本来、日常から非日常を、またその逆を、双方向に粘り強く往復し続ける検討作業のなかから、両者の対立を止揚するすべを発見しなければならない。しかし現実のものごとは、従来通りの縦割り分業流れ作業の枠組みのなかで進んでいく。トータルに計画全体をコーディネートする主体は、あいかわらず不在である。
防潮堤をめぐる戦局は、困難な状況下にある。

復興すべき町の具体像とは

いまほぼすべての被災自治体において、住居系、商業系、産業系といった色に塗り分けられた復興計画図が描かれていることと思う。大槌も例外ではない。
しかし大槌の場合、二十年後、人口が被災前の半分強になり、そのうち少なくとも四割前後は65歳以上の高齢者になる。そういう町における商業地域とは、産業地域とは、いったいどんな市街地の姿をしているのか。計画者は、その具体像を思い描けているのだろうか。
筆者にも、将来の大槌の具体の市街地像は、見えていない。ただ、既存のゾーニングの概念に依存して考えることにあまり意味はない、と思っている。
用途地域を定めることの意義は、用途の混在を避けることによる住環境の質の維持、同種用途の集積のメリット、用途の純化によるインフラ整備の効率化、建築の形態規制上のメリットなどさまざまあると思うが、基本的に、都市が拡大膨張を指向する場合に効果のある計画方法論なのではないだろうか。たとえば、市街地が空間的に拡張する、人口が増加もしくは集中する、建築物や施設が大型化する、総じて都市経済の規模が拡大するといった前提条件において、都市を有効にコントロールする手法ではないか、と思うのである。
大槌の場合、すべて逆である。市街地は、ただでさえ小さな町をさらに集約もしくは凝縮する必要があり、人口はまちがいなく急激に減少してゆき、今後中高層マンションや大型商業施設、大規模工場などの新規立地は予想することがむずかしい。むしろ、一戸建てや低層集合住宅、小さめの自社ビル、ささやかな個人商店や町工場、家族的に経営される水産加工場などが町の多くを構成する要素になろう。
このような町を用途別にきれいに塗り分けるメリットを、筆者はほとんど見いだせない。もちろん、大規模な工場の隣に一戸建てがあってもかまわない、と言うつもりはないが、混ざっても支障がないものは可能なかぎりまぜこぜにすべきだと思っている。
たとえるならば、素材がいずれも小振りでそれぞれ平均的な質であるような場合は、素材個々の特性を強調した単品料理でコースメニューをつくるよりは、鍋に放り込んで水炊きやちゃんこにしたほうが、全体としていいダシがでて美味い。見た目は、単品料理のような計算された美には及ばないかもしれないが、むしろそういう味のほうが、日常的に味わうに値する。そんなイメージで町をつくることができれば、と思うのである。
ただその場合、市街地の秩序を何に求めるかが重要である。ただ用途を混ぜるだけでは単なる無秩序にもなりかねない。
筆者は、建物の機能や用途ではなく、コモンスペース(パブリックスペース、公共施設を含む)を核とする市街地構造の創出に、その秩序の可能性を見いだしたいと考えている。具体的には、区画整理を用いて、皆がすこしずつ詰めあって高台への避難が容易な山裾周辺エリアに凝縮して居住するとともに、日常的な居場所や散歩道と非常時の避難路を兼ねる、個々は小さいながらも緊密なコモンのネットワークを創出し、町の空間的秩序とすることができれば理想的だと考えている。コモンとなる広場に面して、たとえば一戸建て住宅と、銀行の出張所と、床屋と、居酒屋と、町工場が並んでいてもかまわないと思う。大規模な建築物・施設の混入さえ防げれば、むしろそういう町のつくりかたのほうが、地縁的コミュニティをいまだ色濃く保っている大槌(あるいは三陸一般にも)には、適しているのではないか。
これからいよいよ、市街地の詳細な空間計画に着手すべき段階にはいる。防潮堤の帰結がどうなろうと、われわれが復興しようとしているのが住民の日常である以上、想像力のかぎりを尽くして、将来の町の姿がいかにあるべきか、議論と検討を粘り強く重ねていかねばならない。

何にたいする、何のための戦いか

このことを、震災発生以来、考え続けている。個人個人のなかには、被災した人や地域のため、あるいは専門家としての意地、という意識があるかもしれない。しかし個人としてではなく、市民、行政、専門家がいわばひとつのチームとして戦っている、その相手は何なのか。そして何のためなのか。
深刻な自然災害というものは、その社会が抱えているアンバランスな部分、もしくは矛盾点を、的確に突いてくるものだ、とあらためて思う。たとえば関東大震災のとき、復興局土木部長の太田圓三は、これほど被害が拡大した原因は自然の力の大きさのみではない、人間社会が招いたところが大きい、と述べている。関東大震災発生時の東京は、市区改正がほぼ竣工していたとはいえ、市街地の形態は江戸時代と大差ないまま、生活のスタイルだけが急速に近代化していた。とくに、その生活の根本を支えるインフラストラクチャーは、きわめて貧弱だった。基盤が整わないままの皮相的な近代化、その矛盾を突かれてとくに下町エリアの被害が甚大になった、というのが太田圓三の説である。
江戸は、封建体制を敷く世界的にはきわめてマイナーな一農業国の、一大名の一城下町にすぎなかった。明治政府は、その江戸の都市基盤をそのままに、帝国主義的資本主義の国際競争時代における中央集権国家の首都という機能を盛り込もうとしたわけである。明治の末から大正にかけて、工業化の国策のもと、農村部の若年労働層が、インフラが整わないままの東京に大量に流入し、なかばスラムのような居住環境がいたるところに形成されていたようである。そこを大地震が襲い、下町一帯が丸焼けになった。
ひるがえって大槌の場合、人口が2万人にまで増加した高度経済成長期の昭和50年代、津波の通り道を埋め立て、あるいは開発することによって、市街地が一気に拡大した。そして、その市街地の大きさは当時のままに、少子高齢化と人口減少、つまり実体としては空間的にも産業的にも空洞化しつつあるところを、巨大な津波に襲われた。とくに、戦後に海を埋め立てて拡大したエリアは、あきらかに他の地区よりもすさまじい波力を受けている様子が明らかであり、被害状況も凄惨である。大正時代の東京とは逆の状況下ではあるが、都市の矛盾点を突かれて被害が甚大になっている点は共通している。
基本的に近代(資本主義)は、拡大膨張の力学で成り立っているのだと思う。たとえば、施設を拡大して生産性を高め、その利益でさらに施設を拡張し、その拡張が生産性のさらなる向上を要求し、・・・という具合に、膨張が膨張を生む、またはそうならざるをえないメカニズムが、社会を駆動させている面がある(あらたな付加価値の捻出を絶え間なく要求し続ける近年の自由主義的な経済原理の台頭が、それを加速させている)。当然、既往の都市計画の手法はすべからく、拡大膨張を前提として体系化されている。たとえば、広げすぎた土地を自然に戻すための、あるいは市街地を縮小もしくは集約するための哲学も方法論も、いっさい持ち合わせていないことが、いままさに露呈している。
さらに考えてみれば、堤防が単に水を防ぐという機能に加え可住域を拡大するという役割を担い、あるいは期待されて巨大な構造物と化していくのは、明らかに近代以降であるし、高度に専門分化した縦割り分業システムがここまで発達したのも、社会の拡大にともなって膨大化する一方のさまざまな事務作業を、機械のように効率的に処理する必要からであるにちがいあるまい。
文明が変わろうとするときの時代の様相がどんなものなのか、もちろん筆者には知る由もないが、いま戦っている相手とは、まさに近代という枠組みなのかもしれない、とも思う。近代文明にどっぷりと漬かって生きてきたわれわれが、近代的方法論では原理的に解決不能な問題に直面している。これはいわば、その窮地からの出口を、すなわち次代の文明のかすかな光を見いだすための戦いであるのだろう。
それがかりに、無様な負けいくさに終わることがあろうとも(そうならないことを祈るが)、次に拓かれるべき時代につながっていくものと信じたい。

復興に向けて大切なこと

中井 祐Yu Nakai

東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻|EA協会

資格:

博士(工学)

一級建築士

 

略歴:

1968年 愛知県豊橋生まれ

1991年 東京大学工学部土木工学科卒業

1993年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤工学専攻 修士課程修了

1993年 株式会社アプル総合計画事務所 勤務

1996年 東京工業大学理工学部社会工学科 教務職員

1998年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻 助手

2003年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻 講師

2004年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻 助教授

2010年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻 教授

 

主な受賞歴:

2004年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(岸公園)

2006年 土木学会論文賞

2009年 土木学会デザイン賞 奨励賞(片山津温泉砂走公園あいあい広場)

 

著作:

グラウンドスケープ宣言(内藤廣監修・共著、2004)

近代日本の橋梁デザイン思想(2005)

風景の思想(編著、2012)

 

組織:

東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻

〒 113-8656      東京都文京区本郷7-3-1

 

TEL: 03-5841-6134

FAX: 03-5841-8505

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