SPECIAL ISSUE/ all

EA09

2011.09.03

平泉千夜一夜物語

平野 勝也(東北大学 災害科学国際研究所|EA協会)

「おめでとうございます。しかし,これはゴールではなくスタートです。」
結婚式の定番挨拶と同じ言葉を,世界遺産登録を果たした平泉の皆さんに贈りたいと思う。曲折を経て結婚を果たした新郎新婦の恋愛模様と同様に,いやそれ以上に,平泉がここに辿り着くまでには,様々なドラマがあったからだ。長くなることを承知で,しかし駆け足で振り返ってみたい。

僕自身が平泉に関わりだしたのは2004年からである。それ以前に,一関遊水池事業や平泉バイパス工事(※脚注)による調査で柳之御所遺跡が見つかり,そもそも柳之御所遺跡に抵触する平泉バイパスをどのようにするか,景観論争もわき起こった。その中で,平泉が世界遺産の暫定リストに登載されたのは2001年のことである。より一層の慎重な対応が求められ,最終的には東京大学で土木景観が専門の篠原修先生らの尽力により,現在の形に落ち着いたと聞いている。高館山や柳之御所からの風景について様々意見はあるだろうが,北上川本川の流路を変更することまでした国交省の対応は大英断だと言って良い。
その2004年というのは,バイパス問題(写真1)も一段落し,いよいよ世界遺産登録に向けてバッファーゾーンの景観規制や,公共施設のデザインコントロールにどのように取り組んでいくべきか,検討を開始したタイミングであった。しかし,当時の平泉は,平成の大合併の問題で揺れに揺れていた。一関を筆頭とする両磐地域全体で「一関市」ではなく「平泉市」になろうという大合併の協議が進んでいたが,最後になって,その名称が徒になったのか,平泉町はその大合併から離脱する結果となった。そうした経緯もあり,大合併を進めていた千葉和男町長は,町長選への出馬を見送り,2005年1月に,平泉の自立を訴えた鈴木清紀町長が誕生する。僕が参画した時には,既に議論が終わっていた自主条例としての景観条例も,時を同じくして,施行された。

2005年は都市設計家の小野寺康(小野寺康都市設計事務所) さんとともに,一関遊水池関連事業の道路橋梁のデザインアドバイスへと奔走することから始まった。これは,景観計画といった規制の前にどんどん進捗する遊水池事業への景観配慮を進めるために,東北地方整備局企画部の景観チーム,岩手河川国道事務所双方の全面的な協力があって実現した任意の検討体制であった。以降,水門のデザインも随分お手伝いさせて頂いた。また,岩手県の協力により,都市計画を専門とするアトリエ74の佐々木政雄さんと,その当時スタッフであった尾崎信さん,文化財等の歴史が専門の矢野和之さん,ストリートファニチャー等のデザイナー南雲勝志さんらが中心となって,県道の毛越寺通り(毛越寺周辺)のデザイン(写真2)も着々と進んでいった。
初冬のころ,平泉の景観計画を準備する委員会も立ち上がり,いよいよ,まちづくりと景観規制の本格的な検討が始まることになる。公共施設のデザインコントロールは,平泉町重要公共施設デザイン会議として,不肖,僕を委員長として発足した。以来,委員の南雲勝志さん,小野寺康さん,そして平泉町の景観アドバイザーとして,自主条例運用の最前線に立つ地元建築家の小野寺郁夫さんには,陰に日向に,頼りない委員長を随分と助けて頂いた。重要公共施設デザイン会議は,2005年12月に第一回が開催され,景観計画に先行して,任意の検討体制から,きちんとした形で行われることに発展したのである。つまり,平泉町につくる重要な公共施設は,その会議でデザインを審議するという枠組みが完成したのである。国,県の協力はもとより,平泉町の石川二三夫建設水道課長,高橋和夫同課長補佐の活躍が頼もしかった。
先行する公共施設のデザインに対し,景観計画に関しては,いくつかの懸念点があった。景観規制を受ける町民の温度である。当時の平泉町では,熱心な町民の方もおられたが,世界遺産登録は,両山(中尊寺・毛越寺)と役場の出来事である雰囲気があった様に思う。様々な会議でご一緒させて頂いていた,小野寺郁夫さんも,常にその点を心配されておられた。このままでは上手く行かない。考えてみれば,観光バスがお寺のすぐ脇に止まって,お寺だけ見て帰る観光パターンが依然大勢を占めている。そうした状況を目の当たりにしている町民にとって,世界遺産は無縁とも言える。そう言う状況で,建築物の景観規制の話をしても反発がでるばかりか,まちづくりとして成功しない。世界遺産は平泉のまちづくりの契機であって,目標ではないはずだ。その点について,景観計画の素案作成を進めていたアトリエ74の佐々木政雄さんは,先を案ずるあまり,鈴木清紀町長に「もっと町民を巻き込んでまちづくりを仕掛けなければいけない」と,何度もぶつかった。それを取りなすのにも随分苦労した覚えがある。しかし,鈴木清紀町長は,強面で有名な(?)佐々木政雄さんとぶつかって物怖じしないほど,信念と熱意をお持ちだった。仙台出張の折,わざわざ僕の研究室に立ち寄られ,「佐々木さんや平野さんの言うことはよく解っている。いま,世界遺産の話が町民のものになる様に,商業や宿泊施設を仕掛けている。そう言う街全体の仕掛け無しに,町民を巻き込んでいくことは,機運から言って,時期尚早だと思う。だから,もう少し待って欲しい。」と言った主旨のことを,本当に熱く語っておられた。町長として,本当に真剣に町全体の将来を考えておられる姿に,僕は感銘を覚えた。この町長なら,世界遺産を目標ではなく手段として,まちづくりはきっと上手く行く。そう確信したのを思い出す。

写真1 完成した平泉バイパス(左が柳之御所) 写真2 完成した毛越寺通り整備

 

2006年。佐々木政雄さん,尾崎信さんの奮闘により,平泉町の景観計画が,鈴木清紀町長との打合せや,様々な内部調整を経つつ,姿を現しつつあった。景観計画の審議は,篠原先生を委員長とする平泉町景観形成審議会がその役を担った。具体的な景観計画の審議が始まったのである。第一回が,6月29日に開催された。僕も委員として列席した。やはり懸念事項は,町民との温度差であった。ただそこは,町長の手腕にまかせようと僕は思っていた。佐々木政雄さんとの激突も今や強い信頼関係に昇華し,やっと,まちづくりが始まる。しかしその会議に,何故か鈴木清紀町長は欠席だった様に思う。準備段階の委員会では,いつも委員を前に熱く思いを語り続けた町長の欠席に,そういえば,ちょっと嫌な予感を覚えた。
7月7日。訃報。週があけて,7月14日の平泉はとても暑かった。汗だくになりながら,僕は,鈴木清紀町長の通夜に向かった。ご自宅は毛越にある。その落ち着いた佇まいが,僕の無念さを癒してくれた。まさに,これからと言うときだった。だから,無念なのは僕ではなく,鈴木清紀町長ご本人に違いない。僕は町長の遺影に,世界遺産登録ではなく,平泉のまちづくりの成功を誓った。
7月22日文化庁が,世界遺産への推薦を決定する。8月22日高橋一男町長が無投票当選。高橋一男新町長の下で,いよいよ平泉は世界遺産登録への道を歩み出す。以降,景観計画の審議も進み,重要公共施設デザイン会議も,国や県に浸透しつつあり,着々と様々な事業が少しでも良くなる方向へと回り始めた。事業者に無理をさせず,頑張らせすぎない様にする加減も,僕は覚え始めていた。だが,まちづくりの懸案は残ったままだった。気がつくと年が明けていた。

2007年。この年は,平泉にとって,重要な転機となった年かも知れない。まずは景観計画。関わった人間が言うとかなり手前味噌で恐縮だが,平泉町の景観計画は二つの意味で画期的である。一つには景観地区・準景観地区による認定制度を大々的に取り入れていること,もう一つには,多くの道路,河川が景観重要公共施設として指定され,且つ,そうした施設整備においては,平泉町景観重要公共施設デザイン会議に相談しなければならないと,デザインコードを決めるのではなく,デザイン会議を位置づけている点だ。認定制度による事務量の増加をまちづくりのために受け入れた町役場,景観重要公共施設としての指定や,デザイン会議への相談という面倒な部分を,今までの協力関係を基に幅広く認めてくれた県・国。多くの協力があって,平泉町の景観計画は成り立っている。こうして画期的な景観計画は,概ねこの年に出来上がった。好き勝手に言うだけの僕の意見を,計画策定の最前線で獅子奮迅の活躍をし,関係部署との調整をしてくれた高橋和夫建設水道課補佐と尾崎信さんに改めて感謝を申し上げたい。その頃のメールを読み返してみると,尾崎信さんからのメールの多さに,「恋愛初期の男女のような怒濤のメールをどうも」などと戯けて返している僕がいた。それに真顔で「恋愛したての男女並みのコミュニケーションを取りたいのです」と答える尾崎さんも,尾崎さんだが。
景観計画の目鼻がついた7月28日に,景観まちづくりシンポジウムを実施し,景観計画の検討状況を町民に報告するとともに,まちづくりについて議論を行った。パネルディスカッションのコーディネーターを生まれて初めて体験したが,なかなかしんどいお役目であった。「ICOMOSの視察も控え,自発的な草刈りの動きがあるなど,町内の空気が変わりつつある」と,高橋一男町長から頼もしい話を,あとからお聞きした。
一方で,この年は,懸案だったまちづくりに取り組み始めた年でもある。佐々木政雄さんが,内閣官房が募集していた「都市再生モデル調査」を町に紹介した。景観計画による景観条例の次は,屋外広告物条例を検討する必要がある。商工会から応募した提案がめでたく採択され,平泉の商工会主体で,次を睨んでの看板コンテストが実施された。この詳細は,中心的存在だった尾崎信さんがいずれ何処かで書いてくれるだろうが,なかなか,興味深い取り組みであった。シンポジウムやICOMOSの視察で変わり始めた町のムードをさらにまちづくりへと後押しする重要なプロジェクトとなった。これは,単なる看板コンテストではなく,平泉に相応しい看板を考える住民ワークショップを実施し,平泉らしさをみんなで考え,それを審査基準にして,看板コンテストを実施。入選作品は,その予算を使って,地元の職人さん達と一緒に,実寸大模型を作成し,最終審査をする。町民と一緒に考え,町民と一緒につくるというすばらしい企画である。その名も「まちカンコン」。僕は,学識として,ほとんどお飾りの審査委員長を務め,町民ワークショップにも参加した。実は僕にとって,平泉に限らず,これが初めての市井の方との対話であった。その後のコンテストでは,沢山の応募に混じって,町内にふたつある小学校がそれぞれ,授業で取り上げてくれたおかげで,沢山の可愛らしい提案があった。尾崎信さんは,厳寒の中,地元の職人さん達の指導の下,看板の原寸大模型作成にいそしみつつ,沢山の話のネタを仕入れたと思われる。また,当時商工観光課の課長補佐だった千葉多嘉男さんが,随分と茶々をいれつつも,まちカンコンを助けてくれた。ようやく,町民参加型のまちづくりも少しずつ動き出した。
さらに,長年の懸案であった,駅と中尊寺を結ぶ中尊寺通りの整備計画の話が持ち上がってきた。小野寺郁夫さんを座長にして,地元の方々を中心とする中尊寺通り街並み整備検討会が議論を重ねていたが,整備の必要性を現場は認識していても,予算の状況から,地中化といったコストがかかる整備まではなかなか想定されていない状況であった。そのなかで,道路管理者である県が主導し,歩きやすい中尊寺通りを実現するため,車道を狭くする社会実験(写真3)が取り組まれていた。そして,中尊寺通りにはまちづくりに熱心な方もおられる。自らの軒先を観光客のための休憩所にしてしまう熱の入れようである(写真4)。とても素敵なことだと思う。しかし,小野寺郁夫さんは,それが中々,住民全体には拡がっていかないことに焦りを感じている様子だった。
まちカンコンに行くたびに,中尊寺通りの心配事を様々,小野寺郁夫さんと相談しながら,2007年は暮れていった。

 

写真3 中尊寺通りの社会実験の様子                                   写真4 中尊寺通りにある住民による休憩所

2008年。まちカンコンも3月に向けて順調に進み,ようやく,住民主体のまちづくりの芽が見えてきたと思った矢先,二つの出来事が起こる。一つは,僕が会議で失言をして,高橋一男町長に不興を買ってしまったことである。僕は,平泉で沢山の失態を演じているが,恐らくこれが最大だろう。今でも高橋一男町長には,申し訳なく思っている。それに続いて,4月の人事異動である。景観計画の作成を支えた石川二三夫建設水道課長,高橋和夫同課長補佐が定例の人事異動により,まちづくりを担当する建設水道課を去ってしまった。後任の課長は菅原正義さん,そして,補佐は八重樫忠郎さん。八重樫さんは聞けば文化財調査を専門とする方で,土木ではないとのこと。皆,大いに心配したが,それは,全くの杞憂であった。実はそれと同時に,県の土木部隊も人事異動があり,後から中尊寺通りを完全に取り仕切り,素晴らしいものに仕上げていくキーパーソン菊池恭二さんが着任していたのだが。
異動のショックもさめやらない5月。 ICOMOSは「登録延期」を勧告する。石見銀山でICOMOS勧告を覆してしまった余波が必ずあると僕は思っていたから,もうダメだろうと確信する一方で,この登録延期は,良い意味での冷や水となり,世界遺産を目的にではなく手段にして,住民主体のまちづくりをきちんと展開するための時間を,天がくれたのだと思っていた。案の定,8月のユネスコ世界遺産会議では,ICOMOSの勧告通りの結論が出た。その前に,岩手・宮城内陸地震まであった。
と言う訳で,僕としては,3月の失言から,8月までの様々な出来事に,めげていた訳ではないのだが,年度替わりと人事異動による停滞から,8月まではほとんど何も出来ずにいた。そんな僕を差し置いて,ひとり突っ走っていたのが,尾崎信さんである。彼は,本来,世界遺産登録は,きっかけにすぎず,まちづくりとは無縁なのだからと言いつつ,平泉のまちづくりを進めて行くために,次々と手を打ってくれていた。
考えてみれば,屋外広告物条例という大事な案件もある。中尊寺通りという大事な案件もある。平泉にはやるべきことは目白押しだ。そして何より,住民主導のまちづくりへの展開をもっと確固たるものにしなければならない。
一つ一つ話をしていこう。平泉町は景観計画もさることながら,屋外広告物条例もなかなか工夫が凝らされている。一つは総量規制である。一枚当たりの看板面積を規制するのは多くあるが,その総量にも規制をかけていることが非常によい工夫と思う。さらには,特例措置である。景観アドバイザーがデザイン上優れていると認めれば,規制よりも大きいもの,高いものも設置が出来るということだ。規制して減らすだけではなく,平泉らしい良い看板は,奨励しようという前向きな屋外広告物条例だ。これも,尾崎信さんの活躍,そして,八重樫忠郎建設水道課課長補佐の熱意,それを後押しする菅原正義建設水道課長の力量が支えてくれたと言って良い。地元の商工関係者からの反発も勿論あったが,熱意を持って大変短期間の間に町役場が説得し,世界遺産再挑戦も睨みながら,2008年度に素案は慨成する。
中尊寺通りについては,暗礁に乗り上げていた。町としては,一方通行などの交通規制をかけた上で,歩行者がゆっくり歩く道とすることを目指したかったのだが,そうした交通規制の話をした途端に,「便利さは捨てられない。世界遺産は関係ないから,まちづくりにも興味がない」と,地元の方の一部から反対が起きているとのこと。さらには,いくつかの混乱もあり,平泉町役場も,何とか地元を纏めるべく尽力していた小野寺郁夫さんも本当に困った状況だと,嘆いておられた。暮れも押し迫った頃,中尊寺通りの皆さんを前に,その会合で,住民主体のまちづくりの重要性を訴えた。その後,八重樫補佐や建設水道課の岩渕省一さん,そしてなにより,地元の小野寺郁夫さんの尽力により,少しずつ,中尊寺通りを,歩行者中心の道として仕上げていこうというムードが出来ていったと聞く。ずっと地元だけでやっていると,やはり煮詰まってくる。特に利便性を犠牲にする様な話を含む場合は尚更であろう。こうしたときは,やはり外部の人間だからこそ役に立てることもあるのだと,実感をした出来事であった。結果として中尊寺通りは篠原先生の後押しも別方面からあり,「歩車共存道」で進めることとなった。
住民主導のまちづくりについては,まちづくり懇談会を尾崎信さんが仕掛けて,行政に頼らず,自分たちで出来るまちづくりを町民とともに考え,それをマップとして纏めていってくれていた。僕自身はこれについては,何度か学生を連れて顔を出した様に思うが,ほとんどタッチしていない。

2009年。様々な問題は山積しているが,2008年までに屋外広告物条例の素案が出来たので,いよいよ行政がなすべき重要な枠組みづくりは,終わりを迎えていた。一関遊水池事業も,平泉周辺は山場を越え,公共事業としても中尊寺通りが懸案として残っている以外は,道の駅の将来構想はあるものの,大きな事業は直近には存在しない。つまり,これからは,もっと本格的に住民主導のまちづくりを仕掛けていかなければならない。そう言う年であった。今までの経験から,まちづくりについて,町民の意識が随分見える様になってきた。
そこで,平泉に関わっている他所者チームが一様に感じていたのは,お寺と町民との関係である。お寺と町民が今まで以上に協力すれば,もっともっと良い町になるはずだ。また,町民によるイベントも沢山行われているけれど,それが一丸となったまちづくりへの力には繋がっていないという思いも持っていた。町の人同士を繋ぎ,そして両山も繋いでいく。そんなことが,平泉のまちづくりを変えていくのではないかというのが,僕らの実感であった。
GSデザイン会議にお願いしたまちづくり助成金を当初は別のことに使うつもりだったが,皆で議論してそこに集中することにした。地元で仲間と地道に夢灯り活動を続けておられた升沢博子さんに,尾崎信さんが中心になって相談を持ちかけた。夢灯りという素敵なイベントを,町の色んな活動をしている人と一緒にやりたい。そして,両山とも一緒にやりたい。これが上手く行けば平泉のまちづくりは変わると。町を繋ぐ新しい夢灯り,その名も「夢灯り+(プラス)」の準備が始まった。子供達にも沢山の夢灯りを作ってもらった。気がつくと,「夢灯り+」を実行する地元の人たちの集まりは「まちてらす会」と称して活動していた。いい名前だ。会長は,件の小野寺郁夫さんである。小野寺郁夫さんは,もともと夢灯りをしておられた升沢博子さん達への配慮を丁寧に行って下さったため,夢灯りの会の皆さんも含め,とても建設的な会となった。それとは別に,両山にも執事長に出席をお願いし,篠原先生中心に,そして,GSデザイン会議メンバーである岩手県の平井節生県土整備部技監まで個人として参加頂き,これからの平泉の町民主導のまちづくりの有り様を議論して貰う懇談会を並行して行いながら,「夢灯り+」の準備は進んだ。そんな中で,「今年一回ではなく,継続することに意味がある。だから規模は小さくても自分たちで無理なくできることをやろう。」が小野寺郁夫さんの考えであった。小野寺郁夫さんの意見にはいつも救われる。せっかくだから盛大にと,ともすれば思ってしまう余所者の勇み足を制しながら,彼は,町民による継続という先をきちんと見据えていた。役場の職員達も,一町民として大変献身的であった。みんないつの日か仲間が増えて,駅と中尊寺,毛越寺を結ぶ「夢灯り+」が出来たらどんなにいいだろうと夢を描いていた。
8月16日。大文字焼と夢灯り。浄土の風景を持つ平泉の町は,町の人々の手作りの灯りで,黄昏とともに幻想的で荘厳な風景へと変わっていった(写真5)。そして,中尊寺の破石晋照さんの講話が,その風景に深みを増してくれた。学生時代から忘れていた,皆で何かを達成したときの素朴な,しかし大切な感動が僕を包んでいた。
「夢灯り+」の余韻に浸っていたかったのだが,そうはさせてもらえない。案件は山積みである。中学校改築ワークショップ,マップづくりワークショップそして,中尊寺通りの「まちなみの方向性」と,重要なまちづくり案件が三つも動き出していた。
町で唯一の中学校である平泉中学校の改築設計が,2009年は実施されていた。その外観を,重要公共施設として,デザイン会議できちんと議論し修正する必要もさることながら,こうしたまちづくり活動を,子供達にも展開したいとそう思っていた。子供達はいずれ大人になる。次世代のまちづくりを担う子供達と一緒にまちづくり活動を行うことが大変重要であると,学校建築と子供の環境教育が専門の宮城大学の田代久美先生から,仙台市の会議等でお逢いする度に(耳にタコができるほど)聞いていていたので,せめて計画されている学校の建築を子供達の意見を反映したものにして,将来のまちづくりの担い手への種をまいておきたいと思い立った。若干,提案したのが遅かった且つ,補正予算案件であったため,十分な設計時間がない中で,本当に教育委員会にも,設計者である久慈設計にも迷惑をかけたが,件の田代先生を担ぎ出して,お願いを重ね,なんとか子供達と学校建築に関するワークショップを実施してもらうことになった(写真6)。
平泉町教育委員会の齋藤清寿次長や,菊地隆一主任がそれ以降大変熱心に中学校での活動を支援して下さった。田代先生をファシリテータとする2回の子供達とのワークショップを通じて,子供達の希望を吸い上げ,設計を担当していた久慈設計に設計の変更をお願いした。平泉町重要公共施設デザイン会議として,外観だけでなく,校舎内についても越権と思いつつ,お願いの形で修正の提案まで行った。議論の中で,田代先生が言い放った「こんな昭和の建築」というキーワードが一緒に議論に参加した僕と南雲さん小野寺康さんの間で,しばらく語り草となったのを良く覚えている。
さらに,まちづくり活動を拡げていくために,マップづくりの町民ワークショップが行われた。これも,尾崎信さんの仕掛けであったが,企画の途中から東京大学に移られた尾崎さんの代わりに,ワークショップの実施は,アトリエ74の永山悟さんが,中心人物となった。平泉では,僕も沢山の「はじめて」を経験させて頂いたが,永山さんにも沢山の「はじめて」があり,彼にとってこの企画は,大いに勉強になった様である。この企画も例によって二段構えで,町民が好きな場所をコンテスト方式(題して「まちスポコン:まちのスポットコンテスト」)で集め,その成果をみんなで議論しながら,観光マップとひと味違う,町民マップとして作成していくことを通じて,自分の町の良さを見つめ直そうという企画である(図1)。南雲さん,小野寺郁夫さんとともに,審査委員として僕も楽しく加わらせて頂いた。
そして,「夢灯り+」以降でもっとも重要だったのが,地域景観づくり緊急支援事業として採択された中尊寺通りの「まちなみの方向性」の作成であった。これは,紆余曲折があって,ようやく本腰を入れ始めてくれた県の中尊寺通り整備事業を後押しするために,住民が主体的に街並みをどうするのか,その中で,中尊寺通りの将来イメージをどう考えるのか,一冬で合意形成を取りつつ,しかも主体的な住民意思としてとりまとめていくというものだった。街路のデザインは,建築物による街並みと街路の舗装等本体デザインのコラボレーションである。まずは,街並み側のデザインを示していき,その後,中尊寺通り本体の整備を着実に実施し,道路と建物のコラボレーションを完成していくという筋書きである。
小野寺郁夫さんを中心とする地元のコアメンバーと永山悟さんと僕で原案を詰める。それを,中尊寺通りの各行政区それぞれにワークショップの形で持って行き,忌憚ない意見を貰う。それを短期間で繰り返す大変な仕事になった。永山さんが必死の形相で,資料づくりを行ってくれていた。それに,「まちてらす会」のメンバーが積極的で建設的且つ現実的な意見を出して,とりまとめを推し進めてくれたし,「夢灯り+」の成功が,自分たちでもまちづくりができるのだという実感に結びついていたこと,それに加え,菅原建設水道課長や八重樫同課長補佐の熱意も地元にはひしひしと伝わり,各地区での議論は大変盛り上がった。ようやく,住民主体のまちづくりが動き出した実感があった。特に,実験として格子や自動販売機カバーを製作し,実際の街に設置して,皆で見て回った時は,みんないきいきしていたと思う。そう,ちょっとしたことで街は変わるのだ。そうした中で,一番驚いたのは,中尊寺通りの街路整備を担当する県の一関土木センター所長である菊池恭二さんと冬川修課長である。皆で各行政区を回わって住民との直接対話をする時に,町主催のはずの会議であるのに,お二方以下,県の担当職員の皆さんが,毎回参加され,住民からの街路整備の予定や方針についての様々な質問に,的確且つ丁寧に,時には踏み込んだ責任ある回答をし続けて下さった。彼らの中尊寺通り整備の成功にかける熱意が大いに伝わり,住民達も本気で自分たちの街並みをどうするか考えるムードがつくられていった。そして,慌ただしさの中,気がつくと年が明け,2010年を迎えていた。
なお,僕自身は,まちづくりに奔走していて,あまり気にもとめていなかったが,2009年は,構成資産を絞り込み,平泉が世界遺産への再申請が行われた年でもある。

 

写真5 「夢灯り+」の様子     写真6 中学校改築ワークショップの様子

 

図1完成したマップづくりのマップ

2010年。年が明けても,2009年度内は,中尊寺通りの「まちなみの方向性」作成に明け暮れた。それにマップづくりの纏めと,さらには本業である学生への論文指導とが全部重なって,大変な1月から3月であったことを覚えている。
春から夏にかけて,一番慌ただしく動いたのは県である。「まちなみの方向性」を受け,いよいよ県は中尊寺通りの設計業務を実施することになった。しかも,デザインを重視するために,県としては異例の景観プロポーザルによる発注を実施してくれた。平泉の地区公民館で菊池所長とお会いする度に,所長は,世界遺産の道として世界に誇るデザインとしたいという思いをよく話して下さった。僕は,デザインが設計者選定でほとんど決まってしまうことをお伝えしていた。実施された景観プロポーザルは,外部評価委員を入れて実施する本格的なものであった。僕自身は,様々考え,外部評価委員の委員長になることを固辞し,平委員となった。委員長は,早稲田大学で景観・デザインを専門としている佐々木葉先生が務めて下さった。佐々木葉先生は,地方自治体が実施する本格的な景観プロポーザルが公明正大なものになる様に,僕以上に慎重に取り組んで下さった。こういう佐々木葉先生を見ると,性別とは関係なく「男気」を感じてしまうのは僕だけでは無かろう。プロポーザルの手続きと契約の手続きを経て,ようやく秋になって中尊寺通りのデザインが始まった。プロポーザルで特定されたのは,高楊裕幸さんら大日本コンサルタントと西村浩さんらワークビジョンズのJVであった。いよいよ,中尊寺通りの設計が始まる。
時間軸を春まで戻そう。昨年設計が終わった平泉中学校にとって2010年は,いよいよ工事の年である。特に,皆で議論した結果,より開放的なものとして出来上がる予定の「交流ホール」は大変魅力的な空間であるが,下手をすると何も使われないがらんどうな空間になりかねない。これをどう使っていくのか,どんな家具を入れるのか,子供達という将来のまちづくりの種を育てるために,教育委員会の齋藤清寿次長そして,工事を請け負った鹿島・朝田JVの山口憲一所長,そして何より平泉中学校の浅沼卓校長先生をはじめとする先生方に協力を頂き,9月から1年かけて交流ホールのデザインを決めていくワークショップを実施することになった。ファシリテータは昨年に引き続き田代先生を中心に,南雲勝志さん,尾崎信さんにも協力を仰いだ。惜しむらくは,中心人物であるべき田代先生が,この年の7月に宮城大学から香港大学に赴任してしまい,何かの時にさっと平泉に乗り込んで打合せという訳にはいかなくなったことであるが,それ以外は概ね順調にワークショップは進んでいる。なお,このワークショップは2011年の9月に最終回を迎える。
なお,旧校舎のお別れ会は, 平泉中学校のPTAの尽力により,盛大に行われたとのこと。その中で,かつて中学校で歌い継がれてきた合唱曲「奥の細道」を復活させ,OB,OG,元教師,そして現役の生徒達で大合唱したと聞き,母校平泉中学校への皆さんの思いを感じ,ワークショップの成功と,良い学校をつくっていかなければとの思いを新たにした。
さらに,この中学校建設にはもう一つドラマがあった。取り壊しの始まった旧校舎の建設を行ったのは,山口憲一所長のお父様だというのだ。山口所長は,取り壊し前にお父様を現場に招き,旧校舎のコンクリートコア(試験用にコンクリートを抜き取ったもの)を贈られたとのこと。親子二代での平泉中学校建設である。天井などが取り除かれてむき出しとなった旧校舎のコンクリートスラブは,本当に美しい姿を,最後まで保っていたことを付記しておく。
さて,二回目となる「夢灯り+」は,まちてらす会での議論の結果「浄土の灯り」という平泉らしい名前に衣替えして,昨年の反省を踏まえて,より効率的に継続性を踏まえた規模で例年通り8月16日に行われた。企画時点でも僕にはほとんど声もかからなかったことが,寂しいながらも嬉しい出来事であった。そして,その日の「浄土の灯り」は,そんな僕の寂しさと嬉しさを混ぜ合わせた様な,そんな灯りに見えた。
実は,この2010年の夏は,大きな出来事があった。町長選である。世界遺産登録に向けて奮闘していた高橋一男町長が早々と二期目を表明し,無投票再選と皆が思ったところで,菅原正義建設水道課長が,課長を辞職し,新人として立候補を表明したのであった。開票の結果78票という僅差で,菅原正義町長が誕生する。菅原町長初登庁の日,町民が大勢出迎えたという。たまたま僕もその日,平泉にいたので,町長室の外から,忙しそうに来客に追われる菅原正義町長に,「よっ」と手だけ挙げて挨拶してきた。その時の菅原町長の「おうっ」という顔が印象的だった。

秋から業務がスタートした中尊寺通りの設計は怒濤の日々となった。一冬で各行政区を回って作り上げた「まちなみの方向性」も大変であったが,一冬で設計案を同様のスタイルで固めていくのは本当にハードスケジュールだ。おまけに「歩車共存道」について公安委員会が安全性の問題から難色を示し,菊池所長が何度も丁寧に説明に行くなど,設計条件から揺らぐ事態まで生じたため,仕事を進めるのはかなり大変であった。さらには,まちづくり機運の高まりから,住民からの意見も大変多く,しかも景観とは直接関係ない,排水や振動についての相談も多く出たため,何度か会議に出席下さった佐々木葉先生は,デザインの会議なのにとあきれ顔だった。僕は,そう言うことも含めて街路デザインだと思っているので,どこ吹く風ではあったが,実際にデザイン案や資料を作成していた大日本コンサルタント,ワークビジョンズの皆さんは本当に苦労されたのではないかと思う。大日本コンサルタントの高楊さん自身は,こうした住民参加型の本格的な取り組みは初めてで,大変勉強になったと言っては下さったのだが・・・。それにしては,あまりに住民説明が上手すぎると正直僕は思っていることは,ここだけの話である。菅原町長も設計の後半戦はようやく顔を出す余裕が出来た様で,顔を出しては設計案に頷きながら皆を元気づけてくれた。そして,なにより県の菊池恭二所長の熱意が凄かった。「世界に誇る道にしたい」彼の思いがなければ,確実に今の中尊寺通りの設計はない。余談であるが,単身赴任の菊池所長は,会議の度に自ら手作りのお菓子を差し入れしてくれた。そのお菓子は,「漢(おとこ)の菓子」といった趣で,その心意気が妙に嬉しかった。

そして2011年。随分苦労してきた,中尊寺通りのデザインの最後のとりまとめと言う時に,3月11日を迎えた。最終的なデザイン案は,平泉町重要公共施設デザイン会議を通す必要があったが,新幹線は復旧見込みなし。様々混乱する中,なんとかメール審議という形で,デザイン会議としての審議を終わらせた。
震災の影響で,中々まちづくりは進まないが,そんな中,5月にはICOMOSが柳之御所を除外する条件付きではあるが,平泉の登録を勧告。そして,6月にはついに世界遺産への登録を果たした。パリで開かれていた,UNESCOの世界遺産委員会に出席していた菅原正義町長が平泉町に戻ってすぐの7月2日。平泉駅前では,報告会と称する祝賀会が開かれた。その時の町長をはじめとする町民の嬉しそうな顔は忘れられない。しかし,僕がもっと忘れられないのは,まず,その会の中で行われた全山合同の法要である。周りの人に訊いてみたら,「全山(全寺院)はおろか,両山(中尊寺・毛越寺)合同の法要も聞いたことがない。全山というのは平泉が始まって以来ではないか」とのことである。世界遺産というきっかけが山の結びつきを強くしてくれたのだ。そしてなにより嬉しかったのは,中尊寺通りの沿道に,地区の人々が一生懸命灯りを自ら並べている姿である。報告会にあわせて実施された臨時の「浄土の灯り」は,気がつくと,まちてらす会が頑張る行事から、住民総出の行事へと大きく変容しているのを目の当たりにした 。本当に嬉しかった。これぞまちづくりである。そんな「浄土の灯り」の中,合唱曲「奥の細道」が,OB・OG,現役の生徒達で,再び高らかに歌い上げられた(写真7)。感無量と言う以外,言葉を思いつかなかった。

そして,8月16日。住民総出の「浄土の灯り」はついに,駅と中尊寺,毛越寺双方を結んだ。しかも,毛越寺では,それに応えるかの様に,法灯会を始めることになった 。全国から灯籠のための奉納を集め,その灯籠を大泉ヶ池に浮かべながら法要を行うという幻想的な行事である(写真8) 。考えてみれば,大文字焼の灯りは,中尊寺の不滅の法灯からの採火である。こうして,灯りを通じて町が,一つ一つ繋がっていく。頑張って一部の人が並べた灯りではなく,一つ一つをそれぞれの町民が点けていった灯りが,町を一つに繋いでいく。その光景が,目に焼き付いている。

 

写真7 世界遺産報告会での浄土の灯りと「奥の細道」の合唱                    写真8毛越寺の法灯会

 

世界遺産の認定とともに,繋がった幻想的な灯りを見て,まちづくり活動も一つの到達点に達したと,僕は素直にそう思っている。平泉の皆さん。世界遺産認定おめでとう。そしてそれよりも,まちづくりが住民一人一人の思いとして立ち上がってきたことを,本当に嬉しく思う。
しかし,改めて言いたい。「これはゴールではなくスタートです」と。街は生きている。イベントではなく,日常生活の中でのちょっとした街並みへの気配りがどれだけ増えていくのか。そして,建物が補修されるとき,建て替わるとき,一人一人が街並みを考えてどんな建物にしてくれるのか,そういう部分までもが変わってくれば,本当のまちづくりの成功である。そうした街並みへの一人一人の気遣いが,末永く,平泉町を町民自身が愛着と誇りを持って,心豊かに暮らせる街にしていくのだ。世界遺産をきっかけにして,そして,浄土の灯りで繋がった心を,ちゃんと日常の場所の魅力に展開していく。これからが本当の住民主導のまちづくりの始まりである。

※脚注:平泉を流れる北上川は,岩手宮城県境に狭窄部があるため,どうしても洪水が起こりやすい。そのため平泉を含む一関周辺で大規模な遊水池事業が展開されている。また,平泉町内は観光シーズンになると,国道4号線が大渋滞を起こすため,南の一関バイパスに引き続き,平泉にもバイパスが建設された。

祝!平泉、世界遺産登録決定!

平野 勝也Katsuya Hirano

東北大学 災害科学国際研究所|EA協会

資格:

博士(工学)

 

略歴:

1968年 大阪生まれ(名古屋育ち)

1991年 東京大学工学部土木工学科卒業

1993年 東京大学大学院工学系研究科土木工学専攻修士課程修了

1993年 建設省入省

1995年 東北大学 助手

2000年 英国マンチェスター大学客員研究員

2001年 東北大学大学院 講師

2008年 東北大学大学院 講師

 

組織:

東北大学 災害科学国際研究所

情報管理・社会連携部門

准教授 平野 勝也

〒980-8579 仙台市青葉区荒巻字青葉6-3-09

TEL:022-795-7493

FAX:022-795-7505

HP:http://irides.tohoku.ac.jp/

 

業務内容:

・認知科学に基づく場所のイメージ研究

・まちづくりへの助言

・土木構造物デザインへの助言

SPECIAL ISSUE

復興に向けて大切なこと

2011.11.03

将来に何を遺すのか
祝!平泉、世界遺産登録決定!

2011.09.03

平泉千夜一夜物語
hirano_portrait