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2012.04.10

これから本格化する復興デザインに向けて
その3:まち作りのヴィジョン

篠原 修(GSデザイン会議|EA協会 会長)

はじめに

昨年の3月11日からはや1年である。これが私の偽らざる実感だが、被災された人々にとってはつらく、長い1年であったろうことは想像に難くない。住宅の集団移転や道路、公共施設、防潮堤などの計画・設計が本格化するのは本年であろう。平成24年はこの意味で、復旧ではない、復興が成るか否かの大事な年になると思う。

私は今年の年頭に、「これから本格化する復興デザインに向けて(その1)ー復興に使用する材料ー」で施設の劣化や維持管理、地場の産業振興、生物多様性などの8つの観点から地場の石、木などの自然材を使う事を勧めた。また「これから本格化する復興デザインに向けて(その2)ー防災の自治意識について」においては国や県にのみ頼る防災では自らの命を護れる保証はなく、個人と家庭及び地域のコミュニティの防災に関する自治意識が基本であることを述べた(以上の二篇は、この文章の後に参考資料として挙げた。興味のある人は参照されたい)。

今回は(その3)として、復興の計画・設計が向かうべき「まち」のヴィジョンについて私見を述べてみたい。瓦礫の処理さえ遅々として進まぬ現場では、何をヴィジョンなどと夢のようなと言われるかもしれない。しかし、高台に移転して住宅地が出来、低地に漁港や水産物加工場が復活しても、それでは単に生活が可能になったというにすぎない。復興が真の復興である為には、震災以前に比べ、より充実した生活を営む事が可能となる、そしてそのまちを誇りを持って子孫に残せたと言う事が出来る、そのようなまちにしたいものである。その為には、このようなまちにしたいという住民の願いを結集したヴィジョンを描く事が必要である。ヴィジョンを示すことが将来への希望と現場の人々の元気を引き出すのだと考える。しかし、各種の報道を見る限りこのようなまちにしたい、と言うヴィジョンが見られないのが現状ではないかと思う。以下に述べるヴィジョンは、勿論、私の私見に過ぎず、これが良いと押し付けるものではない。現地の皆さんが、それぞれのヴィジョンを描く際の何らかのきっかけになればと思う。

1.ヴィジョンについて

言うまでもなく、ヴィジョンとは将来こうあって欲しいという願いを具体的な到達像として描き出す事を意味する。人間は何時の世にあってもヴィジョンを描いてきた。話し出せば切りがないから、我々に身近な、馴染みのある、まちや都市に限定して話を進めよう。

戦前の大正から昭和にかけて、膨張する東京では住宅地のスプロールが問題となりはじめていた。住宅地の将来をどう描くかが当時の緊急のテーマだった。ここにイギリスのE.ハワードが構想し、レッチワースで実現しつつあった田園都市の構想が紹介される。ハワードの田園都市は都市の利便性と農村の豊かな自然を兼ね備えた、新しいまちのヴィジョンを示すものだった。このヴィジョンを日本流に実現した郊外住宅地が、今でも評価の高い田園調布や成城学園などである。

次に、太平洋戦争敗戦後の日本。我が国の住宅不足は深刻だった。住宅公団が設立され、新しく近代的な住まい方のヴィジョンを示す2DKなどの集合住宅の団地が建設され、庶民の憧れとなった。これに続き、たっぷりとした公園や歩行者専用道を備えた緑豊かなニュータウンが次々に建設された。このニュータウンも新しい住宅地のヴィジョンを示すものだった。しかし、2DKの団地やニュータウンは人口減に悩まされ、今では田園都市のように高く評価されてはいない。原因はいろいろあってそう簡単に言う事は出来ないが、建物が画一的で愛着が持ちにくかった事やオープンスペースが多すぎて、むしろ家が孤立してコミュニティーが出来にくかった事などが挙げられよう。一言で言えばこれらの住宅や住宅地が、終の住処とするに足ると感じられたか否かがその成否を分けたのであろう。

だが、いずれにしろ専門家によりヴィジョンが示される事によって、庶民は生活の目標像を具体的に描けるようになり、将来に向けての活力を持つことが出来たのは確かなことだろう。ここにヴィジョンを示す事の大切さがあると考える。例え、その通りにはならないとしても。

2.復興に向けての浸水低地のヴィジョン

先に述べた団地やニュータウンは、まだ日本が貧しく、経済の高度成長を求めていた昭和30年、40年代のヴィジョンであった。成熟期にある現在においては、物質よりもむしろ精神に重きを置いた、つまり心のゆとりや生活の充実を志向するヴィジョンが求められているのだと思う。そして21世紀も10年を過ぎた今、CO2削減に表される地球温暖化への対応や省エネルギー、環境との共生をヴィジョンのベースしなければならない。

私の提案するヴィジョンは、とりあえず以下のA,Bの2つになる。

A.浸水被害を受けた低地の構想  1

如何に高い防潮堤を築こうとも、津波にやられた低地に住もうという人は稀だろう。今回の津波は500年から1000年に一回のものだと言われる。しかし田老では明治三陸、昭和三陸、そして今回とほぼ100年間に3回もの大津波の被害にあっているのである。防潮堤に全幅の信頼を置けないと言う住民の感情はもっともである。各種の情報を見ると、この危険な低地は公園にしようとする意見が多いようである。どう言う性格の公園かが定かではないから、断言は出来ないが、それが従来のような都市型の公園を考えているのなら、やめた方がよい。維持管理が大変だから。ましてや、今回の被災低地は面積が膨大であり、維持管理が悪ければ防犯上危険な荒地となる事は目に見えている。

これらの低地は元々が砂浜や砂丘の裏の湿地だった筈である。日本の国土の美称である「豊葦原瑞穂の国」の葦原とは河川の氾濫原や、海岸に点在する葦の生える湿地や干潟を意味していたのである。ここを埋め立てて田や畑、住宅地やまちにして来たのが日本の開発の歴史であった。そこが今回の大津波で元の自然に戻ったのだと考えた方がよい。都市公園は人工物であるから人為の手入れが必要であるが、湿地、湿原は自然だから手入れは不要である。維持管理費はかからない。そして再び津波に会おうとも、それは自然であるから復旧する手間は不要である。更に、決定的な違いがある。日本のような気候風土にあっては、都市公園に比べ湿地、湿原は生物多様性において断然優れているのだ。大鷹や鷲を頂点とする食物連鎖は水中の藻、プランクトンから魚、それを食する鳥に至る多様な生物の宝庫なのである。江戸時代、人口100万人を超える、当時の世界最大の都市であった江戸においてさえ大鷹や鷲がいたことは、世界の驚異であった。このように自然と共生してきた都市こそが我が国の伝統であり、世界に誇るべき点なのであった。この事実は広重の「名所江戸百景」深川洲崎十満坪に描かれ、証拠として残っている。

本来の我が国が持っていた生物多様性を取り戻し、自然と共生するまちとする。それが今回の大災害をして、禍を転じて福となす途であると思う。その方策として、北は岩手県から南は千葉県に至る浸水した低地を可能な限り湿地、湿原として保護しビオトープのベルトとすべきだと考える。出来れば、ラムサール登録の湿地としたい。我々はラムサールの湿地とは釧路湿原のような大規模で内陸のものと思い込んでいるが、ラムサール登録の条件を冷静に読めばそれが誤りである事に気づく。沼のごとき小さなものでもよく、河川や海岸の湿地でもよく、干潟であってもよいのである。北は岩手県から南は千葉県に至る500キロから600キロの海岸線、沿岸部がラムサール登録のベルトとなれば、それは世界有数ラムサール指定地となり、世界有数の渡り鳥の飛来地となろう。人々が自然と共生し、高い生物多様性が体験出来る三陸は観光の面からも世界の脚光を浴びることが期待できる。このヴィジョンは、かって高度成長時代に作られた瀬戸内海や京浜から千葉県にかけて埋め立てにより形成された臨海工業地帯に対する21世紀の「臨海生物学地帯」に他ならない。

名づけて「三陸ラムサール都市連合」としたい。

それはこれからの人間居住の一つのモデルとなろう。地域に住む人々の生業は、養殖や漁業、環境に負荷をかけず渡り鳥の餌場となる不耕起水田、葦、蘆などの有用植物栽培、観光、生態学研究や生物学、生物学的都市計画とその運営など多彩な分野の展開が可能であるとおもう。環境省、文科省、農水省、国交省、観光庁などにまたがる総合政策となる事を期待したい。

B.浸水被害を受けた低地の構想  2

様々な理由があってラムサールと出来ない所は新しい大規模経営農業地とする事を提案したい。一戸平均1ヘクタール強の水田では兼業農家となる他はなく、外国との競争に勝てるはずもない。大規模に空いた農地に大規模経営を展開し、新しい農業のあり方を模索する所として欲しい。それが水田であれ、畑であれ、あるいは温室の花卉、野菜、果物であれ、それが農地であれば必ず維持管理される。荒地とはならない、ここが重要な点である。食糧自給率の改善にもなり、何よりも就農意欲をもつ若者移入の窓口となり、まちの活性化が期待できる。原発からのエネルギー転換政策としてソーラーパネルなどによる太陽光発電の基地に、などという構想が語られているが、それには反対である。ソーラーパネルを地上に敷き詰めれば、その土地は陽も当たらず、雨も降らない死んだ土地となってしまう。住宅の屋根にパネルを載せるのとは話が違うのだ。そして被災した地域にとって致命的な点は、ソーラーパネルはただの装置で地域に何の雇用も生み出さないことである。前項に述べたように、様々の生物と共生してきたことが日本のまち、都市の優れた点であった。被災前の三陸のまち、都市もその通りだったはずである。一面に光り輝くパネルが敷き詰められた太陽光発電の基地、しかし木も草も、鳥もそして人間の影も見えないまちや都市。それが復興と言えるであろうか。上に述べたような新しい大規模経営の農業を展開するに当たっては様々なしがらみ、土地所有の問題や農業参入の壁などがあることは承知している。だが産業やまちづくり、集団移転などに特区が用意されているなら、農業にもそれは適用されてもおかしくはない筈である。

名づけて、「三陸自立農業地帯」。これも生物が中心となる新たな一つの「臨海生物学地帯」である。

地元の農民、農協、農政の決断を期待したい。以上に述べたAであるにせよBであるにせよ、土地利用計画に当たっては持続性があるか否かが鍵となる。どんなに良さそうな構想に見えても、持続可能性でチェックすることが必要である。

3.復興に向けての住宅地のヴィジョン

移転して新しくなる住宅地については、低地のラムサール湿地のような明快なヴィジョンを、残念ながら、打ち出せる準備がない。以下では、今回の震災で盛んに唱えられた「絆」をキイワードに新しい住宅地のあるべき姿を考えてみたい。

A.絆を育む場所について

人間関係が希薄になりつつある現代において、一丁何事かが起きた場合の相互の助け合いの精神の大切さが、絆と言う言葉となって現れたのが今回なのであろう。では日頃から、その絆の関係を育む為にはどの様な場所が必要であろうか。相互に気を使い、助け合わねばやっていけない避難所では、その場所が一時的に出現していたと言えるだろう。しかし、一部の例外を別にして、箱の様な画一的な仮設住宅が並ぶ仮の住宅地では、住民達の関係を保つ為の場所は消失してしまったようにみえる。従来型のお隣さんのみの関係に戻り、コミュニティーの関係には発展していないのではないか。以上の私の観察は今回の被災集落には当てはまらないのかもしれない。しかし、私の母方の農村集落(栃木県)の経験からそう思うのである。

そもそもが我が国の農村や漁村の集落は個別に家が建てられていて、ヨーロッパの集落のように教会や広場を中心として集合している訳ではない。集まれる場所がないのである。勿論、集落の集会所はある。ただし、その佇まいは甚だ侘しい。その理由については後にのべる。

わが国の集落の絆は、冠婚葬祭時の相互の助け合いや田の水利組合、耕地整理組合での付き合いを介して保たれている。歴史を遡れば道普請や川普請の共同作業によって強い関係が成立していた。つまり、集落の構成員として集落と自分の生活を維持する為に、応分の負担を果たさなければと言う義務から出発しているのだと考えられる。自らの意思で積極的に参加していた訳ではないのである。従って、用事が終われば時間と場所を共にする理由はない。だから人々が集まる集会所は普段はひと気のない、貧相な空間であっても事足りるのである。農村、漁村が高齢化し、寄合に出ることはおっくうになり、関係は次第に薄れていかざるをえない。家でテレビを見ている方が楽なのだから。秋田県南部のダムの仕事に関わっていた時、湯沢から栗駒山への道を走ると、ちょうど夕暮れ時で、沿道の家屋にポツリポツリと明かりが見えるのだった。家で夫婦で、あるいは一人でテレビを見ているんだろうな。そう思った事があった。もう10年以上前のことである。この状況はより強まっているのではないだろうか。

ヨーロッパに行くと、勿論旅行者の目から見た話だが、どんなに小さな集落にも広場の脇に、明るくオープンなレストラン兼居酒屋があって、年寄りも子供も連れの働き盛りもが集まってワイワイと賑やかに談笑し、時には民謡などを歌っているのだった。何故、こういう違いがあるのか。ヨーロッパの集落では家にいるよりそこに行った方が楽しいからであり、わが国では家にいる方が集会所に行くより楽で、楽しいからであろう。

世が近代化すればする程、人間は個人の自由を大切にしようとする。煩わしい事や他人に縛られるのは嫌なのである。義務から始まった絆よりも個人の自由が優先されはじめる。この傾向は今後強まりこそすれ、弱まることはないであろう。有事に備えて絆を強めようと思うなら、絆を醸成する事のできる日常の場所を用意しておかねばならない。そして、その場所は家にいるより、そこに行った方が楽しいと思える場所である事が大切である。新しい住宅地にそのような、老人も主婦も、子供も集まって楽しい場所をつくる事ができるかどうか。名づけて、

「集落の居間、リビング」を新しい住宅地の中心に。これが私の移転住宅地に対するヴィジョンである。

もう少し具体的に述べれば以下のようになろう。この「集落の居間」では、春には花見ができる、夏には夕涼みができる。秋になれば紅葉を愛で、月見もやれる。勿論、酒は用意されている。こういう一軒の家では出来ない、伸びやかな空間が集落にはなくてはならない。更に日本の家屋で最も居心地の良い場所は何処かと言えば、それは半屋外の縁側であろう。冬の日差しを受けての日向ぼっこ、夏には庇が陽を遮って涼風を楽しむ。雨が降っても大丈夫。この伝統に習えば、集落の居間にも半屋外の縁側的な空間は不可欠の装置である。集落の居間空間は室内にも屋外にも、そして縁側にも必要で、三箇所に設ける事が原則となろう。いつの季節にも、またいつのときにも、そこに行けば顔見知りの誰かがいる。そういう空間であればよそ者が行っても違和感はない。そこは明るく開かれているのだから。

B.より広範な絆を作る為に

前項に述べた場所は主に集落内の絆を強めるためのものであった。情報化社会にある現代にあっては若者がそれに満足できる筈はない。より広い、より自由な繋がりを求めている筈である。なにせ若者が戻って来なければ,また新たな若者が都会から入って来なければ集落に未来はないのだから、若者が満足できる絆を作らねばならない。より広範な絆のきっかけは、現在の所、あるいは近い将来においてもインターネット以外には考えられないだろう。ただインターネットとは何処にいても同等である所にメリットがある事を特徴とするので、ただのインターネットでは三陸に若者を惹きつける事は出来ない。三陸ならではの情報の発信、受信がなければならない。それは何であろうかと考えると、既に述べたラムサール都市連合ヴィジョンとの連携が視野に入ってくる筈である。

日本の、更には世界の湿地、湿原研究者や渡り鳥の研究者を惹きつける現地の生の観測データの発信やシンポジウムの開催は三陸が研究の中心地となる事を可能にする筈である。あるいは、今後の海洋魚類の行方を左右する牡蠣や昆布、回遊魚類の研究センターとすることも可能であろう。なにせ養殖技術では日本が世界の最先端を行っている筈なのだから。またそれは「森は海の恋人」で有名になった、三陸ならではの海と川と、森林の関係を動物、植物両面から研究する生態学研究の一大拠点とする事も可能な筈である。

今までは言う事を控えてきたが、勿論津波に関する調査、研究機関の現地における中心が三陸に置かれる事は至極当然の事と言わねばならない。情報を重要と考える分野は、国防やマスコミに限られるものではない。科学技術の分野こそが現場の調査データや情報を最も重視する分野なのである。海洋、森林、防災に渡る情報センターこそが被災地三陸にふさわしく、その拠点設置こそが有為な若者を惹きつけ、三陸の未来を切り拓くのだと考える。

おわりに

以上に述べた私のヴィジョンは私個人の考えにすぎない。何ら地元の住民や行政と対話を行った訳でもない。冒頭に断わったように、被災地のヴィジョンを各関係者が考える際のヒントになればと思い、私の思いを述べたものである。

篠原 修Osamu Shinohara

GSデザイン会議|EA協会 会長

資格:
工学博士

 

略歴:
1968年 東京大学工学部土木工学科卒業

1971年 東京大学工学系研究科修士課程修了

1971年 (株)アーバン・インダストリー勤務

1975年 東京大学農学部林学科助手

1980年 建設省土木研究所研究員

1986年 東京大学農学部林学科助教授

1989年 東京大学工学部土木工学科助教授

1991年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻教授

2006年 政策研究大学院大学教授、東京大学名誉教授

 

主な受賞歴:
1986年 国立公園協会 田村賞

1990年 土木学会田中賞(森の橋・広場の橋)

1996年 土木学会田中賞(東京湾横断道路橋梁)

2000年 土木学会デザイン賞優秀賞、土木学会田中賞(阿嘉橋)

2000年 土木学会出版文化賞「土木造形家 百年の仕事-近代土木遺産を訪ねて

2001年 土木学会デザイン賞 最優秀賞、土木学会田中賞(新港サークルウォーク)

2002年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(阿嘉橋、JR中央線東京駅付近高

2004年 土木学会田中賞(朧大橋)

2004年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(陣ヶ下高架橋)

2004年 グッドデザイン賞 金賞(長崎・水辺の森公園)

2005年 土木学会田中賞(謙信公大橋)

2006年 土木学会出版文化賞「土木デザイン論-新たな風景の創出をめざして-

2007年 土木学会田中賞(新西海橋)

2008年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(苫田ダム空間のトータルデザイン)

2008年 土木学会田中賞(新豊橋)

2008年 ブルネル賞(JR九州 日向市駅)

2008年 日本鉄道賞ランドマークデザイン賞(JR四国 高知駅)

2009年 鉄道建築協会賞停車場建築賞(JR四国 高知駅)

2010年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(新豊橋)

 

主な著書:
1982年「土木景観計画」、技報堂出版

1985年「街路の景観設計」(編、共著)、技報堂出版

1987年「水環境の保全と再生」(共著)、山海堂

1985年「街路の景観設計」(編、共著)、技報堂出版

1991年「港の景観設計」(編、共著)、技報堂出版

1994年「橋の景観デザインを考える」(編)、技報堂出版

1994年「日本土木史」(共著)、技報堂出版

1999年「土木造形家百年の仕事」、新潮社

2003年「都市の未来」(編、共著)、日本経済新聞社

2003年「土木デザイン論」、東京大学出版会

2005年「都市の水辺をデザインする」(編、共著)

2006年「篠原修が語る日本の都市 その近代と伝統」

2007年「ものをつくり、まちをつくる」(編、共著)

2008年「ピカソを超える者はー景観工学の誕生と鈴木忠義」、技報堂出版

 

組織:
GSデザイン会議

東京都文京区本郷6-16-3 幸伸ビル2F

TEL:03-5805-5578

FAX:03-5805-5579

HP:http://www.groundscape.jp/

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