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2013.07.20

町の同一性と場所の履歴

中井 祐(東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻|EA協会)

町の同一性(アイデンティティ)

この二年、津波被災地である岩手県大槌町の復興に関わりながら考えるのは、町の同一性という問題である。

人に例えよう。人間は、外面も内面も日々刻々と変わり続けている。身体組織は新陳代謝を繰り返しながら外見は次第に変わってゆくし、知識や経験や感情もつねに変化している。十年前、一年前、一分前のわたしと現在のわたしは、また、現在のわたしと一分後、一年後、十年後のわたしは、当然ながら実体としては同じでない。にもかかわらずわれわれは、ほかならぬわたしとして一貫して生きているし生きていくだろうという自明性を疑わない。いわゆる自己同一性(セルフ・アイデンティティ)である。

町も似たところがあると思うのである。建物もその機能も、町並みも、住む人も働く人も、多かれ少なかれ、実体としての町はつねに変わり続け、一時として同じではない。それなのにわれわれは、昨日の東京は今日も東京であり、明日もその先もずっと同じ東京である、ということを信じこんでいる。

しかし今次の津波被災地のような場合、その自明性が崩れる。たとえば筆者が復興計画に関わっている岩手県大槌町のような場合、つまり町としての実体をほぼすべて失い、復興事業によって街路網も街区の形も建物群もほぼ一新されるような場合、従前からの町の同一性は、なにによって保証されうるのだろうか。あるいは、どのような計画・設計上の配慮を施せば同一性が保証されるのだろうか。

人の自己同一性を保証するのは、一説には記憶であるという。なぞらえて考えれば、人にとっての記憶に相当するのは、町の場合はなにか、という問題になる。それを維持できれば、かりに実体としての町の姿や形がおおきく変わっても、大槌人はいままでと同じ、ほかならぬ大槌町を暮らし続けることができるはずである。

 

場所の「履歴」と「歴史」

私見であるが、場所の履歴こそ、人にとっての記憶に相当する、町の同一性のよりどころなのだと思う。

混同されがちだが、場所の「履歴」と「歴史」は違う。

歴史とは、後世の第三者が、それこそ無数無限の過去の事実のなかから、歴史という文脈を形成しやすいものごとを取捨選択しながら編集した、一種のフィクションである。おのずと、歴史を構成する要素は、戦争や革命などの事件や、人間の生誕や死など、基本的にイベントごとが中心になる。あたかも、人間の歴史はイベントの連鎖だけで進行してきたかのように錯覚させられる。たとえば、今朝の朝食が美味かったか不味かったか、いまぼくがどんなことに喜びあるいは哀しんでいるか、といった個人的な体験や日々の喜怒哀楽は、歴史には残らない。その意味で、歴史にとって、個々の人間の実存的な生というものは、かならずしも必要な要素ではない。

いわゆる「歴史を生かしたデザイン」に見られる、単純に歴史的建築物を復元したり、歴史的デザインコードを安直に引用した空間整備において、ときどき受ける嘘っぽい感覚、あのしらけた感覚は、まさにわれわれの実存的な生との関係のなさに起因するものだと思う。あれは、本質においてやはり、(後世の手で編纂された歴史と同じく)一種のフィクションなのだ。そういう空間が町にあってもよいことを否定はしないが、筆者はやはり、町とはまずなによりも、人間のなまなましい生を実感できる場であることを旨としたい。

 

場所の履歴と身体的体験

では、場所の履歴とはなんだろうか。私見だが、それは場所の身体的体験の共有とその蓄積として、理解されるべきものだと思う。そこでどんな事件が起きたとか、どんな偉人が生まれた、といったことどもは、さしあたり関係ない。場所に履歴を刻んでいくのは、むしろ他者と共感できる日常的な体験だろうと思うのである。たとえば、一歩路地にふみこんだときの、いけないところに入りこんだかのような感覚。ひとしきり歩きまわったあとに突如眺めのよい開けた場所に出たときの、生き返ったかのような解放感。めずらしく空気の澄んだ日、いつもの坂のその先に見える、四季折々の山肌や海の色の初々しい鮮やかさ。夏の暑い日、靴を脱いで道端のせせらぎに足をいれたときの清冽な触感。裏山の雑木の葉の隙間から漏れる、揺れる陽の柔らかさ。そういった、些細で日常的な体験だ。その場所を生きた無数の身体に、その場所固有のものとして刻み込まれる体験であり、その記憶だ。

つまり、場所の履歴の核心をなしているのは、かならずしも、その場所に付随する歴史的事実や、その事実を体現する外見的特徴ではない。むしろ、その場所に固有の空気感や質感なのである。

日本のおおかたの町の場合、その空気感を生み出している基盤は、月並みだが、繊細で変化に富む地形、水や緑といった自然の造作なのだろう。これらは、その場所に流れ続けるいわば通奏低音のように、時を経て変わらぬ空間の性格の根源を規定する。さらに、すりへってつるつるになったペーヴメントの光り具合や、いかにも年輪を刻んだ並木の風格、風雨に洗われた建物の外壁の色合いや手触りなど、時間の奥行きを感じさせる要素が積み重なって、その場所固有の質感に厚みを加えていくのだろうと思うのである。

このような場所における身体的体験というものは、同時代人同士のみならず、かつてその場所を生きた人たち、これからその場所を生きるであろう人たちとも、共有可能である。そして言うまでもなく、場所に固有の履歴をきざみこむ主体は、歴史に名を残す偉人たちではなく、ごく平凡な日常をその町に生きる、市井の、無名の市民たちである。

 

アイデンティティを引き継ぐために

ふたたび人間のたとえに戻るなら、人の自己同一性を保証している記憶とは、おそらく、単なる過去の事実の知識としての記憶ではない。その瞬間瞬間の感覚や感情をともなう、なまなましい全身体的な記憶だ。

同様に、その町に起きた歴史的事実を知識としていくら共有しようとも、それを空間に表現して後世に残そうとも、町としての同一性はかならずしも保証されないのだろう。身体的体験を、その実感を、過去・現在・未来にその町を生きる人同士で共有できる、そういう場所をどれだけ豊かにもっているか。そこにかかっているのではないだろうか。

空間を計画・デザインする際に、地形や水、巨木老木、時間の染みついた佇まいをまとう建物や道端のしつらえなどを大切に考える必要があるのは、それゆえだと思う。それらはもっとも端的に、その場所に固有の身体的体験を生む母体なのであり、町としての同一性を過去から未来に引き継ぐ重要な役割を果たしているのだから。

結局は、その場所の空気感と、それを生みだしているものごとを大切に考えて計画しデザインしなければいけない、という至極あたりまえの話に帰着するのだが。

場所の履歴と向き合う空間デザイン

中井 祐Yu Nakai

東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻|EA協会

資格:

博士(工学)

一級建築士

 

略歴:

1968年 愛知県豊橋生まれ

1991年 東京大学工学部土木工学科卒業

1993年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤工学専攻 修士課程修了

1993年 株式会社アプル総合計画事務所 勤務

1996年 東京工業大学理工学部社会工学科 教務職員

1998年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻 助手

2003年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻 講師

2004年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻 助教授

2010年 東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻 教授

 

主な受賞歴:

2004年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(岸公園)

2006年 土木学会論文賞

2009年 土木学会デザイン賞 奨励賞(片山津温泉砂走公園あいあい広場)

 

著作:

グラウンドスケープ宣言(内藤廣監修・共著、2004)

近代日本の橋梁デザイン思想(2005)

風景の思想(編著、2012)

 

組織:

東京大学大学院工学系研究科社会基盤学専攻

〒 113-8656      東京都文京区本郷7-3-1

 

TEL: 03-5841-6134

FAX: 03-5841-8505

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