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2012.10.20

12|最終章「宮島秀夫氏が語る石積み」

前田 格((株)東京建設コンサルタント|EA協会)

これまで石積み技術の現状や産地の状況について、現場の方の話を中心にご紹介して参りました。今回はいよいよ最終章として、自身も手練れの石工でありながら、国内で唯一大学において石積みを教える宮島秀夫先生(ものつくり大学非常勤講師)のお話をご紹介いたします。2007年1月のインタビューをもとに編集いたしました。

 

1.宮島秀夫氏の石工としての系譜

現在(2007年時点)76歳です。自分は造園が本業ですが、祖父と父が石積みが得意であったことや、父の義理の兄弟に石屋がいたことなどから、自分も早くから鳥居を建てる手伝いや間知積みなどの手伝いをしたりしていました。父は野面専門でした。
祖父の出は埼玉県の菖蒲町ですが、実際に落ち着いて商売を始めたのは福島県の白河でした。江戸時代からの庭師の名跡を継いで始めたようです。宮島家というのは菖蒲町の庄屋でしたが、実際は梨づくりをやっていました。祖父は梨を馬車に積んで八王子まで売りに行ったところ、八王子の植木屋の仕事が面白いと馬車を置きっ放しにして、そこに弟子入りしてしまいました。そのままそこで修行し、後で東京の根岸の松本という当時東京一の造園屋の世話役などをやっていました。当時は根岸の松本か田町九丁目の芝田かということだったらしいです。その時にやったのが、成田山新勝寺の石積みだったようです。
自分が石積みを本業のようにしたのは20年前の八王子城の修復が手始めでした。これは自然石の石積みだったため、自分に話が来ました。それまで自分は造園的な物だけをやっていました。ただし、造園の中で石を叩くといったことはしてきていました。
当時の道具は、今と比べるととても不便な物でした。八王子城は、戦国時代の山城で、秀吉に滅ぼされた日本の山城では有数のものです。現地から出た硬砂岩で積まれていました。この硬砂岩は非常に硬く、脈が五日市まで続いていました。五日市では、その石で石臼を作っていました。これは、伊那から流れてきた石屋が落ち着いて作っていたのですが、その由来から五日市では伊那石と称していました。だいぶ時代が下ってから、差別問題が出て石臼作りを止めてしまいました。江戸城に五日市から石を持っていったとの言い伝えはありますが、江戸城に砂岩を使った形跡はありません。
これ以来、本格的にお城専門の石屋のようになってしまいました。みんな国指定の文化財の石垣ばかりでした。

 

2.城石垣を積める石屋について

文化財の石垣の場合、経験の無い者にはやらせないのが建前です。城石垣を積める石屋は、国内に10社しかありません。北海道から滋賀県までの間には、小林(麻布)と金井(群馬県藤岡市)の2社だけです。どちらも自分が教えたことがあります。後は滋賀県の大津に1社(粟田)、大阪に1社(和田と中村)、京都に1社あるにはあるが、ここは実際には積んでいないようです。後は、四国の松山に居り、松山城の時に自分が教えましたが、会社が倒産してしまいました。熊本には2人いますが、「一人親方」です。
金井とは金井農場のことで、群馬の財閥です。千葉大の1年の時から自分の所に来ていました。最初は造園材料を作っていたことから農場ですが、工事もやるようになりました。八王子城の時から、自分が指導しています。

 

3.ものつくり大学での講習について

テキストは全部自分が書きました。各年の実習内容により、内容は毎年異なっています。雑誌石材に載せる時も、この基礎的な話を最初に載せたかったのですが、省かれてしまいました。この基礎的な話を教室でやっても、学生は聞いていません。ダメですね。
造園に興味を持った卒業生にベストグリーンという会社を作らせて3人で造園をやらせています。実際は土木屋に近い仕事内容となっています。ものつくり大以外にこのような技術指導を行っているところは無いと思います。あっても彫刻などの、削るだけの物でしょう。
講習では、特に女性が興味を持ちます。ものつくり大のアーチ実習の作品の横に積んである野面の石垣は、建築の授業か何かでやった物で、自分は関知していません。完全な谷積みであり、こういうことをやられては困ると学長にも言いました。

 

写真1:アーチ実習の作品

 

写真2:宮島先生が関知していない野面の石垣

 

4.技能士の技術レベルについて

一級技能士であれば、きちんとした間知は積めると思いますが、野面は積めないと思います。野面はバランス感覚が重要です。それなりの事はできると思いますが、きちんと教えないとダメだと思います。一級技能士だからと言って、技術レベルは高くはないのです。何でもそうですが、かつての造園の一級技能なんか組合の役員か何かやっていれば取れたもので、まったくあてにならないものです。

 

写真3:以前紹介した寒風さんが「見事な崩し積み」と評した野面職人、村上金治氏の作品

 

5.石垣修復の石工の賃金と野面の石垣について

自分達が甲府城をやる時は、山梨の石工の手間が¥28,500/日であり、それを基準として、一人が一日に0.75m積むという歩掛がありました。

実際に、小林あたりがやっても、0.7mしか積めません。職人任せで行くと、0.5mくらいになってしまいます。

何故そうなるかと言うと、石を造り過ぎてしまうからです。松山城の時も最初切石が主の石屋がやりましたが、結局は文化庁からダメと言われ、それで金井が来ました。

¥28,500/日なら、まあまあいける額です。しかし、文化財の経験がある者が地元には居ない。そうすると出張になります。しかし、¥28,500/日だけで、出張費も交通費も宿泊費も出ません。本来そういう場合には直接費で計上できるはずだが、文化財はそれがありません。

仙台城では、最後は手間が常用になったと聞いています。常用だと、¥5,000ダウン、仙台城の時で¥23,000/日程度です。

 

写真4:修復された仙台城の石垣

 

かつての間知の時は、職人は一日に7~8万円稼ぐような時代で、請負単価が主流でしたが、今は中国産の正間知なので誰でも積めることから、そういった事は無くなりました。合端加工しなくても積めるように中国で造ってきてしまっていることから、誰でも積めてしまいます。結果、細部を上手く合わせられない石積みとなってしまいます。最近では、そういった技術に乏しい職人達を、積木屋と称しています。このままで行くと、みんな積木屋になってしまいます。石の調査で歩いた際に、真壁の技能士を持っている連中がそういうことを言っていました。小林に行ってその話をしたら、やはり小林あたりでも積木屋という言葉を使っています。石屋の新しい符丁かもしれません。

 

写真5:隅角部や目地、天端の処理が粗雑な中国産御影石の石積み

 

問題は歩掛が低いことと経費の計上が無いことです。文化財などの特殊な石積みをやるのに、一般土木単価程度しか出してもらえず、歩掛もそうであれば、文化財はできなくなってしまいます。1月18、19日の金沢で石積みの会合がありましたが、このような問題に対してどうするかといったことであり、3月に国交省を交えて協議したいと北垣氏が言っていました。免許制にしようとの話もあります。北垣氏が集めている会合は、今度で4回目でした。

野面積みの指南書はありません。後藤文書にしても、肝心なことは以下口伝となってしまいます。教えればそれで終わりになってしまうことから、一子相伝となります。今でも、覚えた人間は、皆、一人で覚えたようなつもりをしています。それはそれで良いのですが、それでは人に教えることはできません。技術的なことを文章にするのは難しいです。書かないだけでなく、書けないといった面もあります。

野面の積み職人は、間知の職人よりも少なくなっています。間知を山で割る職人も減っています。長崎の出島を積んだ石は諫早から持ってきましたが、そこの山は中国人に割らせていました。中国人なら3,000円で使えると言っていました。

かつて甲府ではインド人がやっていたこともあります。

野面の場合の隅角の積み方は、大体算木です。角部だけ加工した物を使う時もありますが、野面のままの場合もあります。江戸城は大体隅角は加工していますが、横須賀城などは玉石のままです。

 

写真6:隅角部も玉石のまま算木で積まれた横須賀城の石垣

 

6.石積みの仕事の請け方と品質確保について

石積みの仕事を直接請けることはありません。自分は技術指導だけであり、小林などから呼ばれて行っています。文化財の場合、地元ゼネコンが請けて、小林などが下請けになります。

信長の次男坊の信勝の庭である群馬の楽山園では、今年で4年目になる庭園の修復をやっています。ここでは造園屋も入って、横浜の藤造園が現場監理をやり、小林や金井といったグループでやっています。楽山園では、矢野さんから紹介された金井が土塁の石や池の護岸の石を積んでいます。

以前は役所にいろいろな業種の専門職が居り、自分で直接はできなくても、それなり見ることはできました。それが、今はできる人が居ません。予定価格の50%だの60%などでやるのであれば、品質管理などできるはずが無いです。いい加減な地元ゼネコンが請けると大変なことになります。金井農場は3年前に、3,000万円の仕事で、元請けが倒産し、ビタ一文も取れなかったことがあります。ところが、その元請けは、再生法を申請し、次の日から営業していました。結局は、10年間で1割しか戻って来ないそうです。その時には、役所には、40%の金は前払い金で出ていますが、60%の金は残っています。昔なら仮差し押さえできたが、再生法で申請されてしまうとそれができない。結局は管財人任せになってしまうのです。

もう一箇所、長野の古墳群の整備で、地元の造園屋が元請けで、丁張りも出せなかったことがあります。それで、支払いが丸々1年かかったような事もありました。丁張りは元請けの責任でやるのですが、石垣の反りなどは元請けが勉強不足では計算できません。甲府城の12mくらいの石垣で、コンピューターでやったので間違い無いとのことであったが、自分はすぐに間違いが解ったが、役所は言うことを聞きませんでした。コンピューターは計算を間違えないが、掛ける場所が違えば話にならないのです。

解体の時に丁張りをかけて狂いを調べると言いますが、狂ったものを調べてもどうともなりません。どう孕もうが、上下の位置でわかのです。

昔は、石工の親方が丁張りを出していました。金沢城の後藤文書にも反りの出し方等、そういったことが出ています。それも、今流にやれば、コンパス一本で出てしまいます。

野面積みでは、石の大きさが揃いすぎない、目地が通らないといったことが一番肝心です。大袈裟に言えば、大中小がそれぞれ黄金比のような比率になっているのが理想です。野面の笠石の場合、城によって大きく異なります。大きく使う場合と薄く使う場合があります。しかし、極端に薄いのは困ります。

野面の場合、大体、谷積みはしてはいけません。間知の場合はそれほどでもないのですが、谷積みをやると応力が集中します。古くなった石垣を見ると、谷積みをしたところは下の石が一直線に割れています。なるべく避けるべきです。

石垣は、間詰め石と、何と言っても裏込めが大切です。小田原城で、積み上がって三日目に崩れてしまったことがあります。これを見に行ったが、一目見て原因が解りました。裏込めが揃った玉石を使っていたのです。これが、大小混じって目つぶしがしてあれば、大きく石垣に作用しません。

会津若松城で、地元の土建屋がやって崩れた時に、自分も見に行って調べましたが、積み石と裏込めの石で比重が異なっていました。積み石よりも裏込め石の方がはるかに比重が大きかったのです。そういった単純な誤りが多いのです。地山が良ければ、裏込め量が少なくても崩れない。地山の悪い所は段切りするなど、方法があるのです。

甲府城で12mの石垣をやった時、裏込めをサンドイッチにしました。北垣さんも自分も最初から反対したのですが聞いてもらえませんでした。

掛川城の時に、太鼓櫓で、途中で掘の方に排水するのに、排水口を入れるのを土木屋が忘れ、石垣の方にストレートに水が来たことがあります。石垣の上に30cm盛土して芝が張ってあったのですが、それが50cm陥没し、水が溜まってしまいました。サンドイッチにした所の土が溶け出して、割栗の間に流れ込み、その分陥没したのです。それでもまだ懲りずにやっています。

甲府城でも、発掘の時にサンドイッチに似たような構造が出てきました。しかし、それは石垣のために裏栗にやったのではなく、石を運搬する時の石引道です。それを発掘の時に間違えているのです。その石引道を辿ると、どこから積んでいったかが解ります。下から積んだのではないのです。天守台が先です。そうでないと、石が運べなくなります。

用語の解釈は乱れています。練積みもそうだが、裏込めでも、裏栗石は本来張り立てていくものです。投げ込みではないのです。裏込め地業と同じです。詰めなければならないのです。

造園でも、昔は剪定の用語で剪定の度合いが分かりました。今はまったくわかりません。役所が使う用語の意味がおかしくなっています。

甲府城でも、松山城でも、高さが12~13mあっても、最初に積んでから10年以上経っているが、びくともしていません。

 

7.明治以降の石積みについて

明治期にオランダ人技師が来て積まれた豆腐形の石を積んだ護岸などは、日本の伝統的な技術ではなく、向こうの技術であろうと思います。間知状の石を積むのは日本独特の技術かもしれません。

中国の万里の長城の石積みの時は、朝、皆で薪を背負って、岩盤の上に並べて燃やして、次の日行くとひび割れていて、それをパカパカ剥がして積んだと言われています。

明治以前の間知は、日光の東照宮の石垣のように、それほどきちんとした規格ではありませんでした。きちんとした物は亀甲積みくらいであり、それも亀甲崩しでした。松山城の天守台は亀甲積みと称していますが、五角形の方が多く、完全な正六角形の亀甲はまずありません。間知積みと言っても、それは総称であり城石垣で言うところの打ち込みハギがイコール間知積みになっており、石垣の方では打ち込みハギと言い、切石は切り込みハギと分けています。全体は間知ということになっているのです。それは、一坪に何個という決まりで、形までは決められていません。小さな間知の谷積みは、昔の国鉄に一番多いです。石積みのこういった資料は、旧国鉄が一番持っているはずです。

明治以降の間知石の作り方は、全部墓石や建築材を採った後の屑石を割る訳で、大きな物は採れないことから、小さな物が作り易かったようです。大正時代くらいになると、石の形は同様であっても、谷積みではなく布積みにした物が見られるようになります。高輪あたりの高い石垣など、面が尺5寸の石の布積みです。控えは1.5倍くらいだと思います。

森ビル周辺の石垣は、最近の物ですが、小松石でやっています。東京の屋敷街には谷積みはあまりありません。みんな布積みです。

 

8.国内の丁場の状況について

去年の1月まで、石材という雑誌に連載をしていました。今、それを単行本にしようとまとめかかっています。そこに、いろいろなことが要約されています。連載は平成2年の2月から4年間でした。元々、日本の石という本の続編との位置付けで始めた調査でした。

昨年の9月から全国の石の調査をしています。採石できる物で代表的な小松石や大谷石が対象ですが、大谷石などに至っては、30年前の1/20の採石量となっています。真壁石もそうですが、極端な例だと瀬戸内海の北木島では、10年前は40社あった花崗岩の採石業者が、今は中国材に押されて1社になっています。北木島の隣の白石島では、10社あったのが2社になっています。墓石や建築材はやっておらず、環境石材だけになっており、野面しか出していません。

加工しても中国材に太刀打ちできないことから、野面でしか出していません。灯籠や墓石は茨城あたりで安売りしている中国材が国産の1/10程度です。現在では、採石しても、逆に中国に輸出し、中国で加工して逆輸入しているのが現状です。白石島は、自然石のまま公園などで使う環境石材のみです。全国どこでもこのような傾向があります。真鶴の本小松は縮小しながらやっていますが、新小松は閉山しました。その近くの根府川石は、飛び石や庭石、記念碑などに使っていましたが、全部閉山しています。一社だけ、在庫品を細々と商っています。

変成岩の庭石に至っては、河川では採石できません。岩盤から採り、ミキサーにかけて加工し、最近は加工技術が発達していることから、いろいろな形に加工されています。景石、縁石、積み石など、造園的な物です。野面で出された物は、現場で合端の加工を施す程度です。

城石垣の修復などは、非常に石に困ります。山梨の甲府城の修復は、今年で18年になりますが、近くに甲州小松と称する石が二箇所採石されていたのですが、全部閉山してしまい、今はまったく採石されていません。最初に申請した面積分を採石すると、全部整備して植栽を施さないことには奥に進めません。それには金がかかることから、皆そこで止めてしまうのです。山梨県の場合は、石山の殆どが県有地であり、県有地にはまだ石がいくらでもあります。しかし、民有地が終わった時点で止めてしまっています。甲府城を積み始めた時に、石和駅のすぐ近くの県有地で崖崩れがあり、民家までは落ちなかったのですが、そこに5万tくらいの石が蓄積されていました。それを使おうと思ったのですが、部落がダンプを通すことに反対し、そこから採れませんでした。そういった所が多いです。

間知石は、甲府でもそうですが、群馬では今までの在庫があります。赤城小松と称するものなどは、何十万個とあるのではないかと思います。これは、みな雑割間知です。正間知はやっていません。本来の間知は砲弾型です。せり面がないとダメです。雑割でもせり面を取れば空積みに使うことはできます。

割って積める職人は、産地に居ます。山で割っている人が、積みの仕事に来ます。山が無くなれば、積める人も居なくなります。

赤城小松などストックはあるのですが、現在ではやっていません。

かつて奈良の東大寺の狛犬の時に、近くから出るのが花崗岩で、宋から来た石工には硬くて無理でした。そこでわざわざ本国から取り寄せて造りました。現在残っているのがそれです。

ところが、それから50年後の鎌倉時代になるとハガネの鍛造等の発達もあり、花崗岩で造られるようになりました。今はまた逆になって、向こうで加工しています。日本から技術指導しているものの、覚えればきちんとした物を造れます。瀬戸内海の手島の錆御影の灯籠は、中国の錆御影で造った灯籠の10倍の値段です。

(談)

“職人礼讃”を振り返って /兼子和彦、前田格

 

何気なく「いいな」と思える風景や街並みに出会う。その感じ方は個人の主観や勘によるものかもしれませんが、それを形作った歴史や文化、自然などを知るにつれ、その風景の魅力をより深く感じることがあります。ある風景に対して、その背景や自然との関係を深く知ることでより魅力を感じるようになることは、万人に共通するのではないかと思います。

今回、平成18年から行った国内の石積みに関する関係者へのインタビューを取りまとめて、石積み技術の歴史的背景や自然との関係をあらためて顧みることとなり、話を聞くにつれて石積みの深淵が眼前に開け、強い魅力を感じていったことが思い起こされます。

古くから我が国の街や里の風景の土台を成してきた石積みですが、近年急速にコンクリートに変わり、技術だけでなく材料の生産も風前の灯火となっていく現状の中で、これからつくるものだけでなく、先達が築いた素晴らしい石積みについても将来それを維持していくことが困難であることが危惧されています。

今回の連載には、今なお高度な技術を有する石工達の言葉や、石材に関わる生産者や施工者の問題意識などが記されています。

この連載が、我が国の風景の土台を成す石積みを将来にわたって維持し、発展させていくことの一助となれば幸いに存じます。

 

写真7:志摩市大王町波切漁港。山が海に迫り出したような地形の集落の至る所に錆の入った紀州石を中心とした石積みが用いられ、美しく落ち着いた漁村風景を形成している。

かつて波切の男子は、中学校卒業後に半数が漁師に、半数が石積み職人になったと言われるほど石積み職人を全国に輩出した地である。中には大阪の和田石材のように、波切出身者が興した会社が文化財の修復を手掛けているような例もある。

穏やかな水面、木々の緑や花、波止場の船、神社の鳥居・・・風景を構成する要素のすべてに石積みが介在し、懐かしさや愛しさを際立たせているように感じられる。美しい石積みには、風景を「大切なもの」に変えてくれる力がある。

職人礼讃

前田 格Itaru Maeda

(株)東京建設コンサルタント|EA協会

資格:

一級建築士

 

略歴:

1967年 千葉県生まれ

1993年 多摩美術大学美術学部建築科卒業

1993年 (株)地域開発研究所 入社

2011年 (株)東京建設コンサルタント 入社

 

主な受賞歴:

2001年 土木学会デザイン賞 優秀賞(鹿児島港本港の歴史的防波堤)

2008年 土木学会デザイン賞 優秀賞(嘉瀬川・石井樋地区歴史的水辺整備事業)

 

組織:

(株)東京建設コンサルタント

〒170-0004 東京都豊島区北大塚1-15-6

TEL:03-5980-2648

FAX:03-5980-2613

HP:http://www.tokencon.co.jp/

 

業務内容:

・土木、造園、建築の計画及び設計業務

・都市計画、まちづくりに関わるコンサルタント業務

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