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2012.06.20

13|小野寺康のパブリックスペース設計ノート

小野寺 康((有)小野寺康都市設計事務所|EA協会)

3-2 アプローチのデザイン

-油津 堀川運河及び「夢ひろば」-

 

設計家としての自分のターニングポイントになったプロジェクトが宮崎県に二つある。

一つが日向市駅周辺の公共空間設計であり、あと一つがこの日南市油津地区における堀川運河再生プロジェクトだ。

前者については、『GS 群団総力戦 新・日向市駅―関係者が熱く語るプロジェクトの全 貌』(彰国社,共著)という、駅舎完成までを中心とする、関係者の証言をまとめた記録本が出ている。著者陣の末席に自分もいて、広場のデザインに関してその顛末的なことは若干書いた。

後者も、『GS軍団奮闘記 都市の水辺をデザインする』(彰国社,共著)でその始動期に ついて多少は書いたし、その中で後に「夢見橋」と名付けられた屋根付き木橋については、 そのエピソードだけをまとめて WEB 上で『油津木橋記』(注1)なる連載をしたことがある。つまり、これも部分的ながらすでに書いたし、これらはこの『設計ノート』の中で断片的ながらその発想や意図について何度か取り上げてきた。

改めて本章「ケーススタディ」で取り上げる意味があるとしたら、これまで理論編で述べてきた断片を総合的に俯瞰するところにある。

と、そのはずだったのだが、どうもそれだけではなくなりつつあるようだ。

この『パブリックスペースの設計ノート』は、いつの間にか広場空間に象徴される“にぎわい”の空間づくり―― “人間活動の活性化を誘い生成する場”としてのオープンスペ ースとその空間構造、というものが重要なテーマとなっているようなのだ。

自分で書いていて「ようだ」もないものだが、実はこの『設計ノート』は、大枠のプロ ットだけは決めながらその細部については完全に準備しないまま、毎回どこか一人口述筆記のような状態で赴くままに書き進めてきた。

そんな中で、いつの間にか広場空間を中心とした“にぎわい”の空間構造が一つのテー マとなってきていることに自ら気付かされたのだが、それも当然のことで、実は本稿は、 ここ数年実務の合間に書き貯めていた、ある文章ストックが下敷きになっている。それは、 欧州の広場の空間解析から日本の空間文化のそれとの比較による“にぎわい”の空間構造 についての私論、とでもいうようなものだ。別に出版する当てがあったわけではない。いずれどこかで出せればと思いつつ、自己分析のため、記録のためにただ書きつづっていた。

この連載の話が来たのは、その文章にある程度の目途が立ったと同時にその先どう書き進めるか、丁度行き詰っていた時期だった。このストックがあったから一年くらいは何とか書けるのではないかと引き受けたし、行き詰っていた部分が打開できるかもしれないという自分への期待もあった。

実際こうして一年間にわたって書き続けてみると、自分自身の関心がその当初テーマに かなり集約されていることに気づき、またそこに戸惑いも感じている。

“にぎわい”といっているが、要するにそれは、観照者の実存的肯定の集積のことだ。

自分がその場に生きているという肯定的な実感、それをもたらす場の創出について、自 分は偏っているほどに興味を持っているし、また、パブリックスペースの設計において常にそのことを是とするという姿勢で今日まで来たということを、この設計ノートで気づかされた。

都市を設計することは、人間の営みを肯定し、パブリックという概念のもとに個人が実存的に生きられる場所を創出する行為だ。

立川談志が、落語をして「人間の業の肯定である」と定義づけたのはよく知られた話だが、都市設計家が都市空間を造形する目的もまた、さまざまな人間活動、そのあらゆる事 象を肯定的に受容し、その場を形成することであり、その設計論とは、かような場の形成論理に他ならない。

前回、出雲大社・神門通りのデザインを解説し、それが“道行き”のにぎわい空間として、西欧広場に相応する空間構造の創出を図っていることを解説した。

“人間活動の活性化を誘い生成する場”としてのオープンスペースとその空間構造について、次項「3-3 日本的広場試論」が総まとめ的なものになりそうだというのは、さすがに最初から予期していたことだが、津和野や出雲がそのテーマの一環に乗ってくるとは 全く思っていなかったし、どうも逆算的に眺めると本項『アプローチのデザイン-油津 堀 川運河及び「夢ひろば」』もまた、最終稿を補完するものとなりそうだ。

(注1:月間杉 WEB 版;http://www.m-sugi.com/books/books_ono.htm)

 

油津 堀川運河の経緯

司馬遼太郎の『菜の花の沖』の中で、主人公の嘉兵衛が初めて自前の北前船を新造する くだりがある。和船の船底を走る主材を「航(かわら)」といい、航の両側に立てて、ともに船底の前後を貫く構造材を「カジキ」または「根棚(ねだな)」というが、これらは和船の船底の背骨といっていい部位だ。

嘉兵衛は、それを造るのに日向産の松がもっともよろしいという。

「大坂の伝法の船大工は、日向の松がねばりがあって岩にぶちあたっても割れぬと申しております。」(大坂はいまの大阪の旧名であり、伝法は地名)

さらに文中で、「その航・カジキという船底主要材の左右に張ってゆく中棚は、杉材なの である。これも日向ものがいい」とある。

「日向」といっても、今の日向市のことというより、南の日南市まで含める、現在の宮崎県をほぼ網羅した地方名ととらえるべきだ。 宮崎県日南市の油津は、江戸期において飫肥(おび)藩に属していた。 飫肥藩の基幹産業は林業である。杉材の搬出によってその藩政は賄われていた。 油津港は、中世から天然良港として知られていたが、江戸期においては飫肥藩の木材搬送の拠点となった。 山林で伐り出された木材は「弁甲材」という形状に加工して、これを筏に組み、広渡川水系を流れ下して油津港まで水上輸送されるのだが、当初は、主要経路である広渡川が油 津港に直接届いていなかったため、河口から一度海に出て、岬を廻り込んで港口に搬入し なければならかった。その際、外洋に流失すること夥しいものがあったという。

この手立てとして、飫肥藩の五代藩主・伊東祐実(すけざね)は、河口部付近から内陸 を貫通して直接油津港へ連絡する運河の建設を決めた。

運河の延長は、現在の長さで約 900m である。最大幅員は 36m(平均 27m)。

これをただ開削するのに、天和三年(1683)から約二年四ヶ月の難工事となった。特に 河口付近の岩盤が堅牢で、ついには途中で人柱を立てねばならぬほどに過酷だったと記録 にあり、今もその慰霊碑が運河のほとりに残されている。

この運河が開通したことによって、林業は藩政を安定させるに足る産業基盤となった。

維新後、明治期から昭和初期にかけて運河沿いは、木材加工業者や搬送業でひしめくようになり、土地所有者はそれぞれ「請願工事」によって自費で護岸工事を施し、弁甲材の 「引き上げ部」と呼ばれる斜路が適宜組み込まれるなど、運河は様々な石垣が連なる独特の様相を呈し始めた。

すべて地元砂岩によって築かれた石積みの「堀川運河」は、こうして整えられたのである。

 

昭和初期の油津堀川運河:木材業者が運河周辺にひしめいている

 

やがて堀川運河は、海産物の輸送拠点としても本格的に稼働するようになる。昭和十五、六年頃はマグロ景気で町中が沸き上がった。この頃が油津隆盛のピークであったろう。

運河沿いに住居や商家が並び立った。食材を売る船が川面に連なり、運河水面に面した 建物の窓からザルが紐で吊り降ろされて、水上商人と金品をやり取りする様子が日常の光

景であったし、夜更けまで灯火が川面をにぎわし続けたという。 しかし、やがて太平洋戦争の開戦により、油津港を埋め尽くしていたマグロ船は姿を消した。さらに戦後、運輸の主要が海運から陸上輸送へと移行するに従い、物流拠点として の油津港の役割も弱まった。運河もまたその命運をともにした。

管理を失った護岸は、老朽化とともに次第にコンクリートで被覆されるようになり、一 方で高度経済成長期の工業化がここにも押し寄せ、昭和五十年ごろは水質の汚濁が著しく、 悪臭に悩まされるようになった。もはや運河から風情と呼べるものは薄まり、こわばった表情が覆い始めた。

セメントで表情を失い汚濁した運河から子供たちが遊ぶ姿も消えた。 堀川運河は活力を失った。そして、それはまちの疲弊と表裏のものとなる。 昭和 50 年代に入ると、ついに堀川の埋め立て計画が国に申請された。そしてそれは滞りなく承認が得られた。 もし、この時点で堀川運河が埋め立てられたら、この町は事実上終焉したかもしれない。 だが、そこに至って住民が立ち上がったのである。 猛烈な反対運動が起こった。まちは、まだ死んでいなかったのだ。 埋め立て工事は回避された。しかし、だからといって、すぐに堀川運河の再生に取り掛かるということはなかった。歴史的運河の再生は、平成の港湾事業まで待たねばならなか った。その事業にしても、実は最初から運河再生をうたったものではなかったのだが。

当初は、護岸をコンクリート被覆のまま手つかずに据え置き、避難港としての係留施設 を整備する港湾事業であった。その整備メニューに「景観整備」も含まれていたが、歴史性とは無関係に、いわゆる「お化粧」としての石張り護岸が表層を埋めるというものに過ぎなかった。

それも無理はなく、護岸直上に一般家屋が立ち並ぶ状況では、本体になかなか手を出せるものではない。

しかし、その「景観整備」は、やはり問題であったろう。

転落防護柵は、既製品に杉の薄板が張り付いた代物だったし、護岸は石垣風の石張りに過ぎない(これは「過ぎない」といっていい)。

地元の要望を受けて杉材を張り付けたということなのだが、この手のことは、油津に限らず、全国的な趨勢であった。油津の場合、元の資産価値があまりにも高いのが違和感としてあった。

自分が現地を訪れたのは、その第一期工事が始まったばかりのころだ。

運河本体を歴史資産として復元的に再生すべきではないかという、その当然のことがな かなか実現しないというのが公共事業というものだ。しかも、一度決まった事業は何があっても撤回されないというのも。現場を見渡した印象は、残念ながら全国で無数に起こっ ている事態であるかも知れない。だが、やはりこの土地にとって容易ならざる事態であることは間違いないと、現場を実際に見て心底思ったことを覚えている。

それが、国交省まで遡って計画そのものが見直されることになったというのは、公共事 業の仕組みを知るものからすれば異例意中の異例、まさに奇跡といっていい。

 

左/当初計画で整備中の堀川運河 コンクリート壁の裏には石垣が隠れている。右/すでに当初計画で整 備された運河

 

当初計画で整備された箇所:護岸は、歴史的な石垣とは違い、地場の飫肥石の張り物。舗装は御影石。防 護柵は、地場材振興から杉板が張られた。一般的な「景観整備」といっていい

 

記憶に残る顔がある。

計画見直しに先立ち、日向プロジェクトに関わっていた東京の景観チームを中心に、堀 川運河及び日南市の史蹟について視察が行われたことがある。案内してくれたのは、日南市教育委員会の岡本武憲氏だ。

私もそこに同行していたが、岡本氏は、丁寧に説明こそしてくれるものの、この歴史的 な資産を誰も顧みようとせず次々と壊されてゆく現状を、一日中苦い顔で嘆き続けていた。結局のところ、その視察が運河の整備方針転換の契機になったのだが、今日の岡本氏の恵比須顔は、その当時には想像もつかない。

その辺りの経緯は、先に挙げた『GS軍団奮闘記 都市の水辺をデザインする』でもすでに書いたのでここではこれ以上繰り返さないが、ともあれ、歴史的運河再生がまずあり、その上にモダンなウォーターフロントデザインを被せるという形で事業計画が骨子から整 え直され、いつの間にか自分もその検討チームに加わることとなった。

 

左/風情の残った堀川運河の風景  右/「夢ひろば」に整備される前の敷地。護岸はセメントで覆われて いる。

 

ブレーキを持たない機関車

運河は復元さえすれば、文化財保護としてはそれで十分だが、それを資産としてまちに 活力を与えたいというのがこの「堀川運河整備事業」である。

ウォーターフロントデザインの要諦は、都市を水面に向けて関連付け構成することに集 約される。

――都市を水辺に「付ける」こと。 ...

まちと水辺をどうつなぐか。堀川運河のデザインは、シンプルにそこに集約されている。

水際プロムナードと広場の造形は、すべて街のにぎわいを水辺に集約させ、あるいはま たそのアクティビティを街に放散させることを目的としており、どの区間もその「付け」 の形がそのままデザインの骨格になっている。

たとえば、市道を県用地に転換して水辺の連続性を実現した区間がある。 運河沿いの一部に市道があったため、県事業の水辺動線がそこで連続しない。 これを連続させるには、県と市の管理境を無視して一体的な空間とする必要があった。 実現するには、県が市有地を譲り受けるなり借り受けるといった交渉が必要となり、通常の行政感覚だとこれは「御法度」である。

そんなデザインを、何食わぬ顔で宮崎県と日南市の合同である油津デザイン会議で出した。水辺を連続させるにはこうするしかないでしょう、といわんばかりに。

 

市道が県用地に転換することでボードデッキのテラスで水辺は歩行者空間として連続するものになった。

 

左/歴史的護岸を見せる形で階段が組み込まれた。 右/杉のボードデッキで統一された水辺。護岸に荷重 を掛けないという意図でもある。

 

その場所だけで議論したら、紛糾するまでもなく、ただ否定されて実現しなかったこと は間違いない。可能性があるとしたら、水辺を全域にわたって歩行者空間としてつなぎ合 わせることに関係者の共感が得られるかどうかだった。

それでも、提案したこちらとしては、いずれ反対されることを予期し、いろいろ対策を考えていた。

結論をいうと、意外にもどこからもそういう声の出ないまま、このデザインはそのまま 実現してしまった。

油津プロジェクトは、当時それくらいに「勢い」をもっていたということだ。 ――勢い。 およそプロジェクトというものは、関係者が目標に向かって一丸となり邁進するといっ

た運動性をもっている時期がある。始動期に特にそれは顕著だ。そのような状況のただ中 にいると、時機と人的エネルギーがシンクロした、ある種の「勢い」とでもいうほかはな い、昂揚的な感覚が気分として感じられるものだ。

まちづくりは、そういう感覚のあるうちに結果を出すに越したことはない。

そういう時期は、長く続くとは限らない。というより、続くと思わないほうがいい。

プロジェクトというものは、すべてが順風満帆に進むとは限らない。むしろ、必ずどこかでトラブルは起きると予期すべきものだ。大きな事業ほどその確率性は上がる。

このパターンは、悲しいかな、うんざりするほどわが身に繰り返されてきた。 むろん、そうならない現場もある。 振り返ると、そもそもそうなる原因の少なからずは自分にもあるのだ。人間が未熟だからそういうことにもなる。そして、そのことは自覚していて、人間性があまり褒められた ものでないのは今さら言われるまでもなく言い訳の余地もない。だからこそ、当時は命令 形で自分に言い聞かせていた――勢いのあるうちに進め、と。

油津のプロジェクトをやっていた頃が最も鼻っ柱が強かったかもしれない。デザインを 実現させるためには時には無理もしなければならないと考えていたし、周囲を思い量る度量に欠けていたと今ではそう思う。

油津に限らず、様々なプロジェクトでいくつか失敗もし、無理を通そうとして周りに迷 惑もかけてきてしまった。手痛い経験をもってようやく我が身を思い知ったのだ。

だからといって賢くなったとか、丸くなったとかいうのとは少し違う。

むしろ全く変わっていない自分を知っているから、余計に気を付けているというのが正しい。

今日では、勢いのあるうちに進めることに越したことはない、くらいの感覚でいる。むろん、一つのプロジェクトが完遂するにはトラブルのいくつかは起こり得るものだし。そのことはあらかじめ織り込んでおくべきだが、事が起これば冷静に、誠実に対処する方が最終的にはうまく着地するものだと、今では思う。

最優先事項は、デザインを、目標とするレベルに意図通り完成させることなのだ。

そのためには何が有効か、が重要で、それ以外のことはすべて優先順位が下がる。その ことを感得するまでにずいぶん手間取ったのは、自分のやり方に固執しがちだからだ。

油津プロジェクトでも当時、ブレーキの利かない機関車のような強引さで事を進めてきた。振り返れば、周囲の人々に幾度も助けられながら。

なんとかぎりぎりで走り抜けることができたのは、そんな人たちのおかげだと思う。

 

「夢ひろば」のデザイン

堀川運河のほぼ中央の合流部は、まとまった三角形のオープンスペースがあり、当初から広場利用が想定されていた。

この広場と、次回に述べる日向駅前広場は、相当にエスキスを繰り返したし、そのデザインは紆余曲折した。

――エスキス。

フランス語で「素描」の意だが、通常はベース図の上にトレーシング・ペーパーを広げ、 イマジネーションのままにペンを動かして造形を探っていく作業のことを指す。

この『設計ノート』は設計マニュアルではないといいつつ、そういう技法的な解説を全 然してこなかったので、この際少し横道に逸れると、エスキス一つにしても設計者によっ て独自のスタイルがある。

使われるトレーシング・ペーパー(トレペ)もペンも様々だし、ましてや描きぶりは当 然異なる。道具で言えば、アトリエ系は一般にロール状になったトレペを使う人が多い。 オーストリッチ社のイエロートレペは、一度描き味を知ってしまうとそれ以外に使えなく なる。筆記具は、鉛筆やシャープペンシル、あるいはホルダーといったカーボン・ペンシ ルから、マーカー、パステルなど本当に人それぞれだ。自分は、2B というやわらかい芯を ホルダーに入れたものをパステル代わりに使い、水性ペンと併用している。

昨今水性ペンを使う人が多いのは、滑らかな書き味とともに、安価で、油性と違って紙 の裏に透けないためだと思うが、赤色を使う人、緑、青、紫と人それぞれ色に好みがある。 内藤廣は赤、レンゾ・ピアノは緑というように。

エスキスにもいろいろなスタイルがある。

カルロ・スカルパのスケッチを見ると、全体像よりもディテールの描き込みがやたらと多い。膨大なディテールの積み重ねが、いつしか全体像として焦点を結びだす。おそらく、 初めからある程度の全体構想があって、ディテールを探求しているのだろうと思うが、ヒロイックな全体像というよりは精緻でエレガントなディテールが多層に組み上がる美しさ は、そのエスキスのスタイルにも顕れている。

アルヴァ・アアルトのエスキスは、ふにゃふにゃとした粗い線が幾層も重なりながら造形を模索している味わいあるものだ。その上にトレーシング・ペーパーを重ねてさらになぞってみたことがあるが、どこか最初から確信めいたものを持って手を動かしていると思 えてならなかった。もっとも、そういう段階のスケッチしか書籍化されないのかもしれないが。

話が横道に逸れすぎた。

コンセプトが曖昧なままだと、ダイアグラムである空間構成にも説得力がないので、いくらスケッチを重ねても納得のいく造形には到達し得ない。

わかってはいるが、かといって腕組みをして図面をいくら眺めていても突破口は出てこ ない。だから無理にでもスケッチし、行き詰り、少し時間をおいてスケッチを見直しては また描きなおし、それを繰り返しながら取りまとめようと図る。けれどやはりまとまるわけはなく、気に入らないまま、なおも描きなおし続ける――もっと行き詰るまで。

こう書くと、自分がいかに不器用で無駄が多いか嘆息が出るばかりだ。

無駄な行為と分かって繰り返している。しかし、この膨大な無駄が、自分の場合後々で 効いてくる。これを経て初めて、「その時」がここだと気づけるのだ。

このプロジェクトでは、詳細設計の設計工期もほぼ終わりに向かい、もはや取りまとめに入らねばならないという最後の段階での市民ワークショップでアイディアが飛び出した。

実際には、それに助けられたといっていい。

まちを運河につなぐことをずっと考えていた。しかし、運河はまちの中央をうねるように抜けている。すでに内部にある運河をどういう空間構成で水辺へ指向させるのかが悩みの種だった。

三角形の敷地の先端は運河の合流部だが、なんとなく、かつて木材搬送のトロッコ軌道 があったラインを設計軸に設定してスケッチを重ねていた。その歴史的なトロッコ軌道を 復元することは早い段階で決まっていたからなのだが、しかし、それではいくら造形しても、まちと水辺をつなぐ風情に行き着くはずもない。

そんなことは分かっていた。トロッコの軌道線に、都市基盤を支えるだけのコンセプトが生まれるわけがない。分かってはいたが、先ほどの話のように無駄にエスキスを積み重 ねていたという話だ。止まるわけにはいかなかった。

 

最終形直前の計画案。復元されるトロッコ軌道の線形が基軸になってデザインされている。

 

この時ばかりはもうだめか、アイディアが出ないまま満足のいかないこの絵で行くしか ないか、と諦めかけた最後の市民ワークショップで「その時」が訪れた。

最終形は、ワークショップに参加された住民の一言から触発された。

「運河沿いがきれいになるのはいいが、油津駅から商店街を抜けての繋がりをもう少し考えてもらいたい。」

それは、地元の名士である醸造所の社長からの言葉だった。地域活動も熱心なまちの重鎮の言葉には常々説得力があった。

もちろん、そのことは考えていないわけではなかったのだが、歴史表現にとらわれて自 分自身その意図が弱かったことに気付かされた。

周辺街区の構成をもう一度見直した。その瞬間、主要交差点から運河分岐点へダイレクトに連絡する、弓状のプロムナードが見えた。

デザインは一転した。

交差点と護岸先端部をダイレクトに結ぶプロムナードを主軸にしつつ、まちから水辺へ 至る動線が、中央のオープンスペースを取り囲むように旋回しながら構成される図像が生まれた。

 

ワークショップを経て一転した計画案(最終案イメージスケッチ)

 

最終案模型。交差点から弓状のプロムナードが水辺へ人を導きつつ、オープンスペースを囲い込む

 

さらにこの主軸に対して、屋根付き橋を、横串を刺すように突き刺した。 それが、伝統工法による屋根付き木橋「夢見橋」である。 実はこの橋は、かつてあった木橋の再生なのだが、かねてより地元で再築の要望が高か

ったものを、宮崎県油津港湾事務所が受容したものだ。 むろん、形は当初のものとは違う。 かつてのものは「頬杖橋」といい、主桁を両側から斜材が、頬杖をするように支える構

造だった。これだと頬杖のブレース材の末端部が波に洗われてすぐに腐食してしまう。

また、橋のスパン長は 10m そこそこしかなく、そのまま架橋しても存在感は上がらず、まちと水辺をつなぐ役割が弱い。そこで思いついたのが、あえて長大な屋根を掛けて、渡り橋の意味を引き上げることだった。

屋根を引き伸ばすことで橋梁の存在感が上がるし、広場空間に建築的な空間が絡み合う 面白さも出る。さらにその屋根をわずかに傾けることで、「つなぐ」意図がより明瞭になる とも考えた。内部から見れば逆遠近法である。デザインしてみると屋根が 45mにもなった。 屋根付き橋というより、「橋付き屋根」というべきだろう。

 

屋根付き木橋「夢見橋」平面図、立面・断面図

 

「夢ひろば」のしくみ

この広場の空間構造を、これまで述べた理論において概覧してみる。

 

夢ひろば全景

 

「2-5 にぎわいを造形する」で示した、日本的な広場空間の諸条件をもう一度確認 すると――

①主景が存在すること

②領域性の優れた空間であること

③(主景に対し)適切な大きさと形をもったオープンスペースが(広場の中央部に)配置されていること

④不規則な形態であること

⑤奥性を持った構成であること

だった。

「①主景が存在すること」については、「1-2 領域性」ですでに説明した。 日本の空間文化はイマジナリー・スペースで構成されているので、必ずしも立ち上がっていなくても心象風景のなかでその意味性が形成できると述べた。 堀川運河という水域は、西欧型広場のように背景として立ち上がっていないものの、「水」という、象徴性の高い存在が取り囲み、それに内部空間を関連付けられれば、主景として 構成できると思えた。

主景が立ち上がっていないから、概念的には少々わかりづらいと思う。 なぜなら、三次元のユークリッド空間で理解しようとしても無理なのだ。 あくまでも心象風景なのである。

運河という水域が主景だとしても、図像として三次元的に視界の中央に主体的に表れてこない。それどころか、場合によっては見えていない瞬間もある中で、これを場の主体と感じられるという感覚は、はたして日本の文化に慣れ親しんでいない人に理解できるかど うか。いや、日本人だから皆分かるというものでも決してないだろう。

たとえるなら――。

神社の参道の奥には社殿があることを知っているという状況に近い。参道が、焦点とな る社殿を目指しているのは知っているし、印象として何ら不自然に感じていないにもかか わらず、三次元的には見えない。しかし、その神宮、大社は心象風景の中で主景であり続けている。そんな状況に比類する。

ヴェルサイユ宮殿における壮麗なユークリッド的ヴィスタの造形原理とは真逆のものだ。

日本人でも全員が「解る」という類いのものでもないといったが、これは、能や狂言、 あるいは和歌が、初めて見て聞いて誰もが初めから解るわけではないというのと近い。「理 解」には、それなりの素養を要求するものでもある。とはいえ、初めて能や雅楽に触れた 際に、全く何も感じない、わからないということでもないというのが文化の伝承性であり、 民族的な DNA というものだ。

断っておくが、自分は伝統論者でも国粋主義者でもない。

比較文化論的な観点ないし現象論としての見解から、自分が設計した経緯を可能な限り 正確に論述しようとしているに過ぎない。

次の「②領域性」も、やはり水面に期待している。取り囲んでいる水域の存在が領域を 形成し、かつその遠景にある周囲の杜の緑がそれを補完している。

むろん水面は、広場の中からは常には見えない。だが、空間の観照者は広場の外周が水 面に囲まれていることを心象的に知っている、という話だ。

いちいちそんなことだから、自分のデザインは写真を撮ってもその意図がなかなか伝わ りにくい。その場に行って初めて感じられる場の造形原理である。

困ったことに、写真映りが悪いということは、設計事務所の営業としては困難を呼ぶ。 そこがなかなか辛いところだ。

話を戻す。

領域性は弱い。建築ファサードに取り囲まれた西欧広場のような明瞭な領域感覚には程 遠い。人は水面に囲まれているという感覚を、あまり表層意識としては持っていないだろ う。無意識下でかろうじて効いているという程度だとおもう。心象空間でしか感じられないこの領域性を、いっそ Subliminal territory とでも名付けたい。

サブリミナルでも、テリトリーとして機能するために重要なのはその関係性だ。運河に、 つまり水面に向けて空間が構成されているという、その奥行ある空間構造を用意しなけれ ばならない。

その「仕掛け」は、あちこちに施した。 そのことは、「2-2 形態に多義性を与える」で解説した。

「ボードデッキは、水際線より相当に退いた位置で収められているのだが、末広がりに広がる先端部をすっぱりと切り落とし、その先をゆるやかな下り勾配とすることによって、 デッキ手前から見ると水上に張り出しているように見えるようデザインされている。そこに腰を下ろすと三方に水面が広がって気持ちいいのだが、そこに人が座ってくれると背後からは水際ぎりぎりに人がいるように見える仕掛けである。煉瓦擁壁の先端部に人が腰か けても同様のことが起こる。そして、こういう風景がまちと運河を心象的に結び合わせるのだ。」

そんな操作を組み合わせることによって、「夢ひろば」は造形されている。

 

デッキが水上に張り出して見えるようにデザインされている

 

油津・堀川運河のデッキ・プロムナードと煉瓦擁壁で休む人々(宮崎県日南市)

 

平面図を見てもらえば、三角型の広場の2辺が水面に囲まれ、幅広の緑地が内側に囲い込み、さらに煉瓦擁壁と階段などが相互に旋回するように内部空間を取り囲んでいることがわかると思う。

西欧広場のような、構築物に囲われたハードな領域構造ではない。 主景である水域から完全に閉じることなく、プロムナードで関連付けつつ、シンボルで

柔らかく多層に取り囲んで領域性を形成している。 外周の緑や低い煉瓦擁壁などは、それ自体が広場風景に参加する点景であると同時に、

杜や大地のメタファーなのだ。時にそれが水辺を切り取る額縁となり、時にはまた、それ自体が点景となって風景を形成する。

 

領域性を演出する大地のメタファーとしての煉瓦擁壁

 

そうして囲まれたオープンスペースが、次に「③(主景に対し)適切な大きさと形をも った」それになっているどうか。

まず当然ながら広場の中央部は空いている。問題は、「主景」たる運河水面が風景から立 ち上がっているわけではないので、それがオープンスペースの大きさや形状とバランスさ れているかだ。

すでに述べたように、主景が建築的背景として風景に立ち上がるに越したことはない。 立ち上がらない堀川運河が、広場としての舞台性に“乏しい”ことは否定できない。

「正確にいえば、主景に対して(奥性を持ちつつ)、きちんと場が『付け』られているか どうか」、「重要なのは、主景に象徴的な意味性があり、そして、それに向けてきちんとオ ープンスペースが方向づけられているかどうか」(いずれも「2-5 にぎわいを造形する」 より)ということだ。

囲い込みつつ、主景である水域に向けて方向づけられていることはすでに述べた。そう して関連付けられつつも、周辺ランドスケープとのバランスから中央のオープンスペース の大きさ、形状を整えた。

カミロ・ジッテが、西欧の教会広場が奥行きのある縦型で、市庁舎広場がにぎわいを受 け止める横長の敷地形状を持つ傾向があるとしていることはすでに述べたが(「1-3 ス ケール、サイズ」)、この広場の主景は立ち上がっていないし内部空間からはほとんど見え てもいないので、三次元的にバランスさせることはあまり考えていない。

極端にどちらかに扁平した形ではなく、ほぼ整形に近い造形を、食べればほろりとほぐ れるような三角オムスビを握るように、水や緑でふんわりと囲い込んだに過ぎない。

そういう意味では、「④不規則な形態であること」ということからすれば、少し整えすぎたかもしれない。しかし、実際のところこの広場は最終形からは程遠く、将来隣接する建物が移転をする前提でデザインされているので、自動的に不規則である。

残念ながらこの場合の不規則さは意図的でないので、それが空間演出に何かプラスに効 いているということはない。不規則な形態であれば賑わいが生まれるというわけでないのだから。

 

左/「夢ひろば」全体計画図  右/実施設計段階の最終図 既存建物が残って最終形に至っていない

 

最後は、「⑤奥性を持った構成であること」

これは、いうまでもなく広場という内部空間が運河水面に方向づけられ、つまりはその方向に奥行きを持って構成されていることを指す。そのことはすでに再三述べたが、一つここで確認したいのは、「奥」へという方向性は、「中心」へのそれとは異なり、実際の焦点は“見えない”ということだ。

西欧広場が教会や市庁舎を主景として空間が方向づけられているのとは異なり、奥性を持った空間とは、焦点となる重心の存在があることは方向性を持ちつつも、「道行き」の過 程ではそれが必ずしも見えない。奥へと向かう継起的展開によって運動性を持ちつつ、実はその焦点そのものはヒロイックな図像性を欲しない。

伊勢神宮に限らず、神社参道を巡り巡って本殿に到達するも、一枚の布がひらりと垂らされて中が見えない、空虚なクライマックスにて道行きが完遂するように。

寺院のご神体が、荘厳な本殿の奥に鎮座されつつも、行ってみれば岩くれに注連縄が掛かっているだけの質素な景物で終わるように。 回遊式庭園が、建築という重心を持ちつつそれが必ずしも空間の焦点ではなく、園路は見え隠れする諸景に導かれて行き進むも一向に「中心」に到達することはなく、主景たる 建物の庭先に出て初めてその庭のすべてが、「借景」として遠景の山岳に意味づけられていることを知るように。

だから、というと言い訳めいたものになるだろうか。

油津「夢ひろば」は、堀川運河という主景に方向づけつつ、必ずしも立ち上がって見え ないその存在に方向づけることによって、面的な広場という空間を日本の空間文化の文脈に乗せて“にぎわい空間”として造形してみたものだ。

自分自身のあらゆる知識と技能をこの空間に込めた。 それが実際にどうか、というのはむしろ第三者が客観的に評価するものだと思う。 これ以上の自身の評価は無用だ。 未完成、というのがこうなると言い訳めいてくるが、この段階でも機能するようにはデザインした。 うまくいった部分もある。ただの空き地、ただのオープンスペースには決してなっていないと思うが―― さて。

 

夢広場で遊ぶ人々

 

 

土木デザインノート

小野寺 康Yasushi Onodera

(有)小野寺康都市設計事務所|EA協会

資格:
技術士(建設部門)

一級建築士

 

略歴:
1962年 札幌市生まれ

1985年 東京工業大学工学部社会工学科卒業

1987年 東京工業大学大学院社会工学専攻 修士課程修了

1987年 (株)アプル総合計画事務所 勤務

1993年 (株)アプル総合計画事務所 退社

1993年 (有)小野寺康都市設計事務所 設立

 

主な受賞歴:
2001年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(門司港レトロ地区環境整備)

2001年 土木学会デザイン賞 優秀賞(与野本町駅西口都市広場)

2002年 土木学会デザイン賞 優秀賞(浦安 境川)

2004年 土木学会デザイン賞 優秀賞(桑名 住吉入江)

2008年 グッドデザイン特別賞 日本商工会議所会頭賞(油津 堀川運河)

2009年 建築業協会賞:BCS賞(日向市駅 駅前広場)

2009年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(津和野 本町・祇園丁通り)

2010年 土木学会デザイン賞 最優秀賞(油津 堀川運河)

 

主な著書:
グラウンドスケープ宣言(丸善、2004、共著)

GS軍団奮闘記 都市の水辺をデザインする(彰国社、2005、共著)

GS軍団奮闘記 ものをつくり、まちをつくる(技報堂出版、2007、共著)

GS軍団総力戦 新・日向市駅(彰国社、2009、共著)

 

組織:
(有)小野寺康都市設計事務所

取締役代表 小野寺 康

〒102-0072 東京都千代田区飯田橋1-8-10

キャッスルウェルビル9F

TEL:03-5216-3603

FAX:03-5216-3602

HP:http://www.onodera.co.jp/

 

業務内容:
・都市デザインならびに景観設計に関する調査・研究・計画立案・設計・監理

・地域ならびに都市計画に関する調査・研究・計画立案

・土木施設一般の計画・設計および監理

・建築一般の計画・設計および監理

・公園遊具・路上施設などの企画デザイン

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